ある小さな集落の歴史

 熊本県のほぼ中央部を流れる緑川、その流域にある小さな集落「下田口」。地元のおじいさんやおばあさん等の話を元に、図書館でも調べてみました。学校で習ったというか、教科書に載っている中央の政治や文化だけが歴史ではありません。地方の小さな地域にも、そこに暮らしてきた人々の記憶に深く刻まれてきた歴史があります。


「下田口」、その名の由来

五色山 五色山ごしきやま(乙女山とも、左写真)には、およそ500年前の永正14年(西暦1517年)より天文19年(1550年)までの35年間、田口弾正だんじょうという殿様が住んでおられた城跡があります。弾正はその後、居城を益城町の飯田山いいださんに移され、付近を治められていたと伝えられています。現在でも飯田山の城跡付近を“田口平”と呼び、往時の形跡が残っています。
 この田口弾正の名にちなみ「田口」と呼ばれるようになったと伝えられています。田口弾正の活躍等については、さほど記録が残って居らず、詳しいことは知られていませんが、豊後の国(今の大分県)の大友義鑑の家臣で、たぶん肥後の国(熊本県)における大友勢力の目付役であったようです。飯田山中に田口弾正の墓と伝えられている古墳がありますが、田口弾正は豊後で殺されていますので、この墓が弾正のものという確証はありません。
 下田口と呼ばれるようになったのは明治15年(1882年)です。戸数増に伴い、田口は上田口・下田口・和田内の3部落に分割されます。現在(2000年4月)、下田口の戸数は72戸、男73名、女90名、計163名が生活しています。65才以上の割合が50%を越えています。また、この30年間に戸数は1割以上増え、人口は半減しています。

小市郎神社

 下田口の区民に代々引き継がれている小市郎神社は、俗称「小市郎こいちろさん」と言って区民に親しまれています。祭神は小市郎大納言藤原経家を祭ると言われていますが、一説では鎮西八郎為朝が益城郡萬所を甲佐郷に押領されて退去される時、長子の小一郎に対し、「おまえに与えるものは何もないが、この鎧一領を私の形見として与える」と言って、鎧一領を譲り与えられたと伝えられ、その名前にちなんで小一郎とも、また「これ一領」が訛って小市郎となったとも伝えられています。
 小市郎神社は田地13アールほど所有しておられ、12月10日の例祭日には5つの小組合毎に区民総出の親睦会を実施して豊作を祝うとともに、交友を深めてきました。その伝統は現在も続き、小市郎神社の恩恵に感謝しています。しかし、昭和54年、下田口地区の甫場ほじょう整備に伴い、神社所有の水田は処分されました。

 ところで、「小市郎」→「コイチロ」→「恋一路」、すなわち「小市郎神社」=「恋一路神社」、恋愛成就のご利益とのうわさ?を聞いたことがありましたが、ここのことでしょうか?

聞得寺

 真宗本願寺派、本尊は阿弥陀仏あみだぶつ
 飽託郡の順正寺の次男の貞元という方が嘉永5年(1852年)8月、僧業の許可を受け庵を構えます。明治10年(1877年)8月聞得寺と称し、順正寺の末庵(小寺)に属します。同12年(1879年)8月には寺房の許可を得て正式に聞得寺となります。同13年(1880年)4月、本瓜宗規綱領に基いて本山直末に編入され、現在に至っています。

その他

〇妖雄筺併峺雄筺
 下田口の西の坂です。俗説によれば、天徳2年(958年)、乙女山天満宮(田口菅原神社)の勘請かんじょう(神様をお迎えする)の日に、田口村の住民が4斗を入れる樽に御神酒を入れて、この坂の上で神輿を迎えたと伝えられていることから、この坂を四斗坂と言い、この付近を四斗村と言ったと伝えられています。
 
⇔仞遒硫厳
 下田口の住民は、昔より緑川とともに生活し、その恩恵を受けてきました。明治27年(1894年)、28年の大干魃かんばつの際に、南山賀や中山等の山間地では稲作の収穫が皆無であった時でさえ、私たちの所では平常通りのお米が収穫できたのもすべて緑川の恩恵でした。反面、昭和18年(1943年)の大水害や緑川のための交通不便等の弊害も忘れてはなりません。
 
E電瑤療静
 電灯が下田口に点灯されたのは、大正8年(1919年)4月で、それまではランプといって灯油を照明に使っていました。この電灯の普及によって現代のような電化時代の基礎ができたのです。
 
づ銚小学校
 元々、碧陽へきよう小学校と称し、明治7年(1874年)12月創立されています。明治17年(1884年)、現在の宮西商店一帯に新築移転します。昭和10年(1935年)10月、乙女小学校に統合されるまで、下田口に小学校がありました。今では田口小学校を知っている人も少なくなりました。
 
シ本バス開通
 当時の熊延ゆうえんバス(現在の熊本バス)が昭和29年(1954年)3月1日より、熊本市より甲佐町まで乙女を通って運行されました。「熊延」とは「熊本」と宮崎の「延岡」を結ぶという意味でした。
 
ε銚橋の開通
 昭和30年(1955年)9月9日、念願の田口橋が開通して交通が便利になり、部落あげてお祝いをしています。それ以前は「船渡し」といって、渡し船で白旗方面へ行き来していました。
参考図書:肥後国誌(大正6年発行)、上益城郡誌(大正10年発行)
 
 いかがですか、身近なだけに、教科書で習う歴史や地理より親しみがあるというか、興味深いものがあるとは思いませんか。皆さんも、自分が住んでいる地域の歴史や地理を調べてみませんか。学校で習う地理や歴史も、単なる全国共通の「暗記もの」を問うのでなく、もっと「何を調べて、どう思ったか?」等を問題にして欲しいと思いませんか。入試問題が変わらないから、教科書や学校の試験も変わんないのかな・・・。(2000/09/14 最終更新:2005/08/13)
 
文責:熊本国府高等学校パソコン同好会

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