肥後の民話と伝説

 熊本にも、様々な民話や伝説が語り継がれております。その中からいくつかを紹介させていただきます。民話や伝説は、受け継ぐ地域や人によって、少しずつ違っているかと思います。なお、3~7は熊本県発行のパンフレット「修学旅行<企画資料>」を参考にしました。(熊本国府高等学校PC同好会)

根子岳の猫伝説 飯田山の背比べ 姫浦 米原長者どん
兜梅 横手五郎と首掛石 平景清の娘 明神池の河童
なばの泣き堰 10 「楽々数学」にも「彦一どんと殿さん」という話が!
 
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1 根子ねこ岳のねこ伝説

根子岳の写真 阿蘇の宮地(現在の阿蘇市一宮町宮地)に住む男が、南阿蘇の高森(現在の高森町)まで行くことになりました。宮地から高森へ行くには、日ノ尾峠を越えるのが近道で、その道を急ぐことに。しかし、どういうことか山道を迷っていまい、だんだん日が暮れてきました。

 仕方なく、野宿でもと場所を捜すことに。ところが森の中に家の灯りが見えるではありませんか。近寄ってみると大きなお屋敷。「こんな山の中に家が?」と不思議には思ったものの「野宿するよりは」と、宿をお願いすることにしました。

 お屋敷の主は、この辺りでは見たこともないような美しい女の人でした。「旅のものですが、道に迷いましたので,宿をお願いしたい」と申し入れたところ「それはお困りでしょう」と親切に座敷に案内され、「お風呂にしますか、食事にしますか」との問いに、歩き疲れていたので、風呂を先にすることに。

 風呂場に案内され、入ろうとしていると、別の女性の声が。
「おじさん、おじさん。この風呂には入らない方がいいよ。この屋敷からは早く逃げた方がいいよ。」
「ええっ、なぜ?」
「ここは猫屋敷です。旅人を猫にしようとしています。ここのお湯に浸かれば、湯に触れたところに猫の毛が生えます。食事をすると身体も猫に変身します。どうか早く逃げて下さい。」
「しかし、あなたは、なぜ私を助けてくれるのですか?」
「私は、おじさんの隣の家に飼われていた猫の三毛です。おじさんにいつも可愛がってもらっていましたので、そのお礼です。」
 男は半信半疑ながら、その真剣さに負け逃げることに。庭に出ると、先ほどの女が湯桶を持って追いかけてきます。

「待てー! お前も猫になれ!」と叫びながら、お湯を振りかけようと追いかけてきます。
 男は、うしろを振り返りもせず、ただ逃げるだけ、かけられた湯が少し手の甲に付いたのも忘れ、一目散に走り、無事に宮地の自宅に帰り着くことができたそうです。
 帰り着くや否やぐったりと倒れ込み、そのまま朝まで寝入ってしまいました。よく朝、目を覚まし、手の甲を見ると、ほんの少し猫の毛が生えているではありませんか。昨夜お湯がかかった場所です。急いで隣の家に、三毛のことを尋ねると、夕べから帰ってないとのことでした。

 男が迷い込んだ場所は、根子岳北側登山口の谷間です。今では、その地を「ヤカタガウド」と言って猫屋敷の話が残っています。現在は漢字で「根子岳」と書きますが、昔は「猫岳」と書いたそうです。新月の夜には阿蘇中の猫がこの山に集まるという言い伝えも残っています。(その後、本ページを閲覧された隣県の方から「飼い猫が突然居なくなり、数日経ってから帰ってくることがあるのは、阿蘇の根子岳に集まるからという言い伝えがある」とのメールをいただきました)

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2 飯田山いいださん

 その昔、飯田山いいださん金峰山きんぼうざんに背くらべを申し込んだところ、金峰山は「オレに勝つはずがなかろうが」と軽くあしらいました。それに怒った飯田山は「いや、自分の方が絶対に高い!」と言い張り、結局互いの項上にといをかけて水を流しどちらが高いのか比べてみようということになりました。

 そこで、山頂間に(とい)を渡し、水を流してみると、高さ自慢を言い出した飯田山の方へ流れてしまい、すっかり恥をかいた飯田山は背比べなど、もう「言いさん」と言ったとか。このことから、いつの間にか「飯田山(いいださん)」と呼ばれるようになったそうです。また、飯田山の頂上付近にある池はこの時の樋の水がたまってできたものといわれています。

飯田山の写真 金峰山の写真 甲佐岳の写真
飯田山 金峰山 甲佐岳

(注:上益城郡甲佐町などでは、飯田山の背比べの相手を甲佐こうさ岳という話も残っています。この場合、「言い出さん」と言ったものの、背比べに負けた飯田山はくやしく、甲佐岳になぐりかかったのです。突然の暴力にかなわなかった甲佐岳は「降参(こうさん)、降参!」と言い、その「こうさん」が甲佐岳の山名の由来となったそうです。甲佐岳の山頂付近の絶壁ぜっぺきが、その殴られた跡とのこと。甲佐岳は城南町方面から(なが)めると絶壁の姿が格好良く、「肥後マッターホーン」とよぶ人もいます。)

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3 姫浦

 景行けいこう天皇の九州巡幸じゅんこうの祈、船で八代海を南下された時、暴風ぼうふうとなって船が今にも沈みそうになりました。天皇にお(とも)していた姫は、これは海神の怒りのためだと思い、「我が身はこの荒海に()まれようともみかどの命を助けたまえ」と、白い衣装に身を包んで荒海の中に飛び込みました。すると今までの(あらし)がうそのように静まり、波もおだやかになりました。

 やがて神浜の岸辺に一つの石が打ちあけられました。人々は「姫が姿を変えて(みかど)のあとを慕って流れついたに違いない」と、その石を祀って姫の霊をなぐさめました。これが姫石神社です。(現在の上天草市姫戸町姫浦の伝説)

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4 米原長者どん

 菊池から山鹿にかけて広大な田んぼを持っていた米原長者の一番の自慢は、大勢の小作人を使って一日で田植えを終わらせることでした。ところがある年、まだ植え終わらぬうちに日が沈みかけたので、長者は金のおうぎで太陽を招き返し小作人たちを急がせました。しかし、あとひと息というところで日が沈み、悔しがった長者は倉の中からたくさんの油を出させ、日岡山の項上にまいて火をつけ、その明りで田植えを終わらせました。その晩、長者の屋敷では働いた大勢の人を集めて盛大な慰労いろう会が行われましたが、その最中に山から火の玉が飛び出し、見る間に長者の家も倉も焼けてしまいました。今でも日岡山は「はげ山」のまま残り、屋敷跡からは多くの焼け米が出土しています。

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5 兜梅かぶとうめ

 天正年間、小西行長と加藤清正の連合軍が天草の志岐城と本戸城を攻めた折り、天草氏の客将・木山弾正(だんじょう)は清正と対決し、討たれてしまいます。それを知った木山弾正の夫人のお京の方は、弾正の鎧兜よろいかぶとに身を固めて男装し、馬にまたがって本戸城から討って出ました。それに続いて城中の300余名の女たちもりりしく鉢巻はちまきをしめて繰り出しました。
 お京の方は、何としても夫のかたきを討とうと清正めがけて突進し、清正に斬りかかりました。さすがの清正もその勢いに押されてたじろぎ向きを変えて逃げ出しました。お京の方がそれに追いすがり恨みの太刀を振りおろそうとんた瞬間、梅のつえかぶとか引っかかりすっぼり取れて、長い黒髪が現わになってしまったのです。
 「無念!」とお京の方は悔しがりましたが、もうどうすることもできません。女とわかると雑兵かなだれうって討ちかかり、お京の方は無数の探傷をうけて倒れました。苦しい息の下から「憎き梅の枝かな。花は咲けども実はなるな」と恨みを込めて言い残し、お京の方は息絶えました。以来この梅の木は「兜梅」と呼ばれ、毎年花は咲くが実はならないといわれています。(本渡市浜崎町の延慶寺の伝説、樹齢500年の兜梅は今でも毎年2月白い花を咲かせています)

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6 横手五郎と首掛くびかけ

 熊本城内の月見やぐらの西すみに首掛石と呼ばれる変わった形の石がありますが、これは築城の析に横手五郎という怪力無双かいりきむそうの若者が、花岡はなおか山から首にかけて運んできたものだと伝えられています。
 実はこの五郎は、清正と戦って破れた天草氏の客将・木山弾正の遺児であったといわれ、父の仇を討つため土木人足に姿をかえて城内にまぎれ込んでいたのです。その事が発覚すると五郎は捕えられて古井戸に生埋めにされることになりました。しかし、上から大石を投げ入れても五郎は一つーつ受止めてしまうため、とうとう砂を入れられて生埋めにされたといわれています。

 「5 兜梅」と「6 横手五郎と首掛石」の「本山弾正」は「木山弾正」の誤りでした。メールにて間違いのご指摘を受け、訂正させていただきました。ありがとうございました。(2001/09/06 )
 
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7 平景清の娘

 壇の浦だんのうらの合戦に敗れた平家の落武者おちむしゃたちは九州の各地にかくれ住む者も多く、勇者ゆうしゃ平景清もその一人でした。景清の娘は、父に会いたい一心で九州各地を訪ね、ついに球磨くまの山中に分け入ったある日の夕暮、突然飛び出した黒猫に驚いて道ばたの胡麻ごまガラで眼を突いてしまいました。
 それから数日、宿にこもって傷をいやしていた娘は、ふと来あわせた門付(かどづ)けが「景清の行方(ゆくえ)はついに白波の消えてあとなき海のかなたに」と歌う声を聞きました。今となってはもはや父を捜す手だてはないと悲しみにくれた娘は、それから3日目に父からもらった旗を形見の短刀で切り裂き、(かえ)す刃でのどを突いて果てました。(門付け:家の門前で音曲を奏するなどの芸をし、金品をもらう人)
 以来この地を切旗(きりはた)(現在は「切旗」でなく、球磨郡あさぎり町岡原字「切畑」)と呼ぶようになり、この部落では今でも娘を哀れんで、胡麻ガラは部落内に持ち込まず、黒猫も決して飼わなくなったといいます。

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8 明神池の河童(かっぱ)伝説

明神池にあった河童の絵 阿蘇の白水村(現在の南阿蘇村)には、白川水源などたくさんの泉があり、「水の生まれる里」の別名があります。その泉の一つに明神池というのがあります。
 昔々、この池には、仲のいい男と女の河童かっぱが住んでいたそうな。ところが、この男の河童ときたら、いたずら好きで、村人に迷惑ばかりかけていたそうで、とうとう明神池の神様の怒りに触れ、池を追放されてしまったそうな。
 後に残された女の河童は悲しみに暮れ、それからずっと池の中程にある石の上で男の河童が帰ってくるのを待ち続けたそうな。しかし男の河童はとうとう帰ってはこれなかったそうな。
 今でもその石が池の中程に残っております。平成9年、その石の上に女の河童の銅像が建てられました。この写真の絵は案内板の一部です。


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9 なばの泣きせき

小嵐山に残る大石と現在の堰 昔、阿蘇のふもとに「なば」というあだ名の力持ちが住んでいました。泣けば泣くほど、更に強い力を発揮するという不思議な男でした。なばのお母さんが亡くなった時、葬式料理に使う「なば(茸、きのこの方言)」を採りに山に入り、「なば」が鈴なりに生えている立ち枯れの大木を見つけるや、根こそぎ引き抜いて持ち帰ったほどの力持ちです。これが「なば」というあだ名のいわれです。
 ある年、鹿漬しつけ川にせきを造る事になり、「なば」の力は大いに役立つことに。誰も動かせないような大きな岩でも、「なば」は泣き叫びながら抱えてしまいます。そして工事が無事終り、堰の完成を祝った翌朝のことでした。堰の一部が壊れ、水がどんどん漏れているのです。一番大きな石が無くなっています。「なば」が運んできた石です。不思議な事に、元あった場所に戻っていました。その大石は小嵐山しょうらんざんの中腹から運んだものでした。
 「なば」は首をひねりながらも、また川まで運んできますが、翌日には元の山の中腹に戻っています。「なば」は意地になり、毎日毎日泣きながら、何度も何度も運んだのですが、同じでした。最後にはとうとうあきらめ、ほかの石を使う事にして、やっと堰が完成しました。これが「なばの泣き堰」という名前の由来です。大石は今でも小嵐山の中腹に残っているとのこと。(以上、国土交通省立野ダム事務所発行「白川の民話 阿蘇の昔むかし」から「なばと殿様」と「なばの泣き堰」の要約です。同事務所の許可を頂き、ここに紹介します)

 「なばの泣き堰」との出会いは別ページ熊本の方言で取り上げている単語「ナバ」「ナバンゴツ」が発端です。これは「とても、大変」という意味の最近の若者言葉ですが、その「ナバの語源は?」と調べているうち「立野ダム事務所のカレンダーに関係ありそうな話が!」との情報に。そこで同事務所に問い合わせ、この民話と出会うことに。残念ながら、方言「ナバ」と直接つながる証拠は発見できなかったのですが、主人公「なば」が泣きながら頑張っている姿は方言「ナバ」の雰囲気を連想させてくれます。初めて「ナバ」を「とても」の意味で使った人がこの話を知っていたのかどうか、真偽の程は?(2004/09/22)
 
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 (最終更新:2009/05/13)

制作:熊本国府高等学校パソコン同好会

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