林 桜園はやし おうえん

工事中!

クリックすれば,碑の拡大写真が 林桜園は寛政10年(1798)に林又右衛門の三男として誕生,明治3年(1870)10月12日没の国学者で,名を「有通」,号が「桜園」です。肥後藩の藩校「時習館」に入りますが,校風に馴染むことが出来ずに退学。本居宣長の流れを汲む国学者「長瀬真幸(1765‐1835)」に入門,国学と神道を学びます。その後,国学,神道,儒学,天文,地理,蘭学などの書物と出合い,幅広い学問に通じた学者で,宗教家,政治家,歌人,画家,・・・。特に教育者としての活躍に目を見張るものがあり,天保8年(40歳),私塾「原道館(げんどうかん)」(NHK下の千葉城公園に,左の写真は原道館跡にある石碑,マピオン地図)を開き,敬神・尊王を説いて子弟の教育にあたります。その門人の数は1200人とも1400人ともいい,勤王党の宮部鼎蔵,学校党の佐々友房(済々黌創立者),実学党の横井小楠と言った,幕末の熊本の3党派を代表する人物のほか,佐賀の島義勇,久留米の真木和泉,長州の大村益次郎等々,まさに多士済々。特に肥後勤王党や神風連の人々(敬神党)に大きな影響を与えています。主な著書に「科戸風瑞書弁妄」「昇天秘説」「宇気比考」など。墓が桜山神社(熊本市黒髪,マピオン地図)境内にあります。

 桜園の死後に起きた神風連の変(乱,明治9年10月)は原道館の門人の一部(大田黒伴雄,加屋霽堅など123名)による決起でした。直前の帯刀禁止令(3月)や断髪令(6月)が発端とのこと。今考えれば大したことではないことと思えますが,伝統を重んじる武士にとっては屈辱的とも言える大問題。丸腰や断髪姿を恥ずるべき醜態と映ったのだと思います。それに反発する純粋な心意気に発した事件かと思います。そんな彼らの気持ちを諭す人がいなかったことが残念でなりません。明治9年10月,もし林桜園が生きていたら,神風連の人々の決起が起きたかどうか。今となっては誰にも判断のしようがありません。しかし,この事件で多くの青年たち(戦死28人、自刃86人)が亡くなったことは事実,あまりにも悲しい出来事です。熊本ばかりか,日本にとっても大きな損失だったのでは。今でも,世界の各地で,このような痛ましい事件が繰り返されているようにも思えます。イラクやアフガニスタン等にも共通するものがあるようにも・・・。

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桜山神社境内に眠る林桜園と門弟たち,境内の神風連資料館には桜園関連資料も!
(「郷土の有名人を紹介されておりますが、横井小楠を取り上げるなら、その対極としての林桜園も取り上げてほしいと思います。2010/02/18」とメールを戴いたのが本ページ発信の発端ですが,桜が開花し始める季節に発信できたのは単なる偶然?しかし,うまくまとまりません。間違い等もあるかも知れません。分かり次第更新することにして「工事中」のまま発信致します。 2010/03/02)
最終更新:2010/03/05
文責:熊本国府高等学校PC同好会
 

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