山形の石橋を研究されている市村幸夫様が、「山形県文化財保護協会」で研究発表されたときの資料です。掲載許可をいただきましたので、紹介させていただきます。


眼鏡橋流出の記録 ―常磐橋と萬代橋―

平成14年6月8日 山形県文化財保護協会研究発表資料

市村 幸夫


はじめに

 山形県に架設された石拱橋(いわゆる眼鏡橋)は二十一橋。うち十三橋が現存。八橋が撤去及び流出し姿を消している。(註1)

橋名  場所 架設年 撤去流出年 備考 
瀧ノ岩橋 米沢市万世町 明治11年 明治40年撤去  
瀧ノ小橋 米沢市万世町 明治11年 明治40年撤去  
中山橋 上山市中山 明治11年   上山市指定文化財
堅磐橋 上山市川口 明治11年   上山市指定文化財
常磐橋 山形市坂巻 明治11年 明治23年流出  
幸橋 高畠町幸町 明治12年    
九十九橋 高畠町夏茂 明治12年 撤去年代不明  
土生田橋 村山市土生田 明治12年 昭和35年撤去  
太鼓橋 山形市鉄砲町 明治12年    
新橋 上山市楢下 明治13年   上山市指定文化財
吉田橋 南陽市小岩沢 明治13年   南陽市指定文化財
蛇ヵ橋 南陽市小岩沢 明治14年    
萬代橋 真室川町及位 明治14年 昭和50年撤去  
綱取橋 小国町綱木 明治14年    
覗橋 上山市楢下 明治15年   上山市指定文化財
舞鶴橋 米沢市丸の内 明治15年   国登録有形文化財
多嘉橋 天童市本町 明治20年   犬山市明治村移管
大泉橋 鶴岡市 明治21年 昭和5年撤去  
幾代橋 村山市岩野 明治22年   (註2)
新井田橋 酒田市 明治23年 昭和30年撤去  
康寿橋 南陽市赤湯 不詳    

 これら明治の遺産と云える石橋のなかから、水害で流出したとされる「常磐橋」と「萬代橋」に照準をあてながら、その要因等を探り、近代土木遺産のありようを考えてみたい。

[1]常磐橋(山形市)

  1. 大町念仏講帳  明治二十三年の部(註3)
    春中ハ相応ノ気候ニ候処、夏ニ至リ気候寒クシテ時々暴雨勝ニテ、最上川出水都合三度ニ及ヒ、然レ共昨年ニ比較スレバ水嵩モ丈斗リ短キ由、然レ共南村山郡・東村山郡・山形市等ハ、八月八日非常ノ水害ヲ蒙リ、酢川・馬見ヶ埼川洪水ニテ、先年三嶋通庸公県令ノ時、石橋ヲ五万円ニテ酢川ニ架設シ、其堅固ナルコト近県ニ其比ヲ見ザル由、目鏡五ツニシテ実ニ美麗ナル石橋ニ候処、今般ノ大水ニテ不残破壊其痕跡ヲ不止、又馬見ヶ崎川暴溺シテ、県庁・千歳公園等一面急流瀬ヲ成シ大石ヲコロガス、其響キ千雷ノ一時ニ鳴リ渡ル如クニシテ、師範学校以北悉皆水浸リ、床ノ上四五尺ト相成タル由、皆々家財ヲ携ヒ近傍ニ逃走シ、タキ出ヲ受ケテ一時ノ急ヲ凌キタルニ、又々八月廿四日出水、先ノ堤防破壊ノ所、未ダ修繕中ニテ未タ出来不致所へ又々出水ニ付、水勢宜敷為メニ先ノ水ヨリ一尺五六寸ノ増水ニ有之候由、八月八日壱丈三四尺ノ増水、廿四日壱丈壱弐尺ノ出水、其後九月八日壱丈五尺斗リノ洪水ニ候へ共、其節ハ山形市仮堤防出来後故其ノ難ヲ免レタリ

  2. 池田成章日記
     日記(註4)の筆者、旧米沢藩士・池田成章はハーバード大学に留学する長男の池田成彬に「時々の通信其時に臨て認めんとすれば、平生思ふ事の半を尽す能はず。因て日記を作り便宜直に郵送し、是を書簡に換るものなり。」として認めた日記である。明治二十三年八月の冒頭部分である。

  3. 気象の状況
     「山形県災異年表」(註5)によると、常磐橋が流出した明治二十三年(一八九〇)は「二、三、四月高温七月低温、十二月の暖気希有の現象なり。十二月九日夜大隕星、明月よりも尚明にして光りの后の響百雷の同時に鳴り渡るが如く、路上の人夫の中に失心せるもの多かりしといふ。八月五日夜より七日にわたる大雨、同二十二、三両日の大雨、並びに九月七日、八日両日の強風のため馬見ヶ崎川出水し、家屋の流出十七戸、破壊一一九戸、浸水一二五九戸、道路破壊一六〇〇間、堤防欠潰一七六〇間、破壊六〇〇間、宅地田畑の浸水一六二町歩、溺死者三人、負傷三人の被害をみたり」とある。  
    須川左岸を望む
     
    須川右岸を望む
    (右木立がもと水天宮の場所)

     八日になり漸く雨は収まったものの、須川の水は増し、池田成章及び大町念仏講帳の記載から判断するに、この八日に常磐橋は破壊されたようである。対岸にある片谷地の古老の話によれば、石橋は片谷地側の左岸から崩れたと伝えられている。
     岐阜大学名誉教授の故井上肇氏は、二度来形され現地を調査した結果として、『洪水により流木が堆積し、石橋の弱点である、水流が石橋の下から押し上げた結果、破壊されたのも要因かも知れない。しかし「左岸から崩れた」という話から推敲するに、左岸の護岸工事に問題があったのでは無かろうか、技術者としてはそう考えたい。』
     
     左岸の脆弱性の遠因と思われるものに、三島県令の道路政策として進められた「羽州街道」の拡幅があった。街道を二間から四間に拡幅するため、強制的に土地収容されたことがうかがわれる。「片谷地村の歴史」(註6)には、明治九年片谷地村名寄帳に「明治十年道路潰地、官地第三種編入」と屋敷が軒並みに朱書されている。北の入口は四郎兵衛二坪、六三郎七坪の如く、裏宿や裏側の家を除き全部強制的に収容されている。山形の玄関口として坂巻の橋を石造の眼鏡橋とし、橋から四郎兵衛、六三郎の前まで新たに四間幅の新道をつくった。
     このことについて三島文書には「山形の入口常磐橋の手前わずかに二丁程の間、旧道少しく迂回あるをもって、田畑をつぶして直線の道をつくり、路傍神樹を植えめぐらすに木欄を以てす」とある。つまり、明治十一年の常磐橋着工を前に、片谷地側の取り付け道路を、旧道を避けて直線に作った事がうかがわれる。

[2]萬代橋(真室川町及位)

  1. 「高橋忠義一代之物語」(註7)
    石橋難儀之事、石橋落誠之事
    扨、明治十三(四カ)年一月五日、近藤岩太郎石橋取調として参り白川六等属出張、ならびニ石工米沢宮内村之者吉田善之助十七人、ならびニ土方拾人都合三拾人計ヅツ、私之家ニ宿ス、其時私し石橋世話掛り被仰付、石材遍ヲ相尋候得共御用ひニ不相成、無據院内より石ヲ取運ひ、其運送之世話掛り被仰付、二月より三月迄六十回余り毎日雄勝峠壱日六七度ヅツ往返ス事ニハ那テ、さがり々して其辛苦語言ニ難尽、漸々四月末ニ至り輪石抱上り候所、洪水之為ニ下わぐ流され、猶又漸々八分通も出来候所、洪水して両方之袖石崩れ、其為掛官白川も御免被仰付、石工善之助も御廃ニ相成、石工賄料百三拾円余そんもうする、仍而掛官宮原ト申者参り、石工ハ山形孫兵衛ト申者参り、漸々八月迄落誠ニ相成候、然候処、王上御巡幸ニ相成所、私之宅御あん在所被仰付、其節集作数不調、ならびニ台所も無之、仍而俄ニ新筑ニ取掛り、ならびニ玉座ヲ集作大工挽引、か遍ぬり張し、たたミかえし、都合三拾人計昼夜兼行ニして漸々間ニ合セ、其こんさ津又語言ニ難尽、其節米壱俵ニ付四円弐拾銭尤も白米也、人壱人五拾銭也、諸色高値右ニ順ル也
     
  2. 一部損壊の悲劇―八・六水害
     昭和五十年八月六日、眼鏡橋萬代橋は一部損壊した。激甚の災害であった、いわゆる「八・六水害」の出来事である。当時の災害状況を「山形県災異年表」には、次のように記されている。
     「八月五日夜から降り出した雨は、六日朝方から山形、秋田県境を中心に一時間最大雨量六一弌紛盪魁砲箸いΨ磴靴ね覬となり、合計雨量で鳥海山三四七弌大台野二五〇弌金山二二六个覆謬録的な大雨となった。このため県北部の最上郡、飽海郡を中心に土砂くずれ、山くずれ、橋梁流出などによる交通網の寸断や堤防決壊による家屋、田畑などの被害続出(死者四人、行方不明一人、負傷者二五人)し、特に真室川の堤防決壊による真室川町の被害大きく、総額一〇〇億円を越す被害を出した。」
     翌八月七日の山形新聞は「土砂降る県北」「大雨にもろい最上地方、毎年恐怖くり返す、中小河川の整備まだまだ」「幹線道路ズタズタ、新庄以北普通個所は七〇ヵ所に」「及位駅、千人が車内に臨泊、特急など依然立ち往生」と報じている。
     ときに山形市では「花笠まつり」のまっただ中。「救おう豪雨被災者、伴淳さんが義援金募る」と、山形新聞の見出しにある。
     このような激甚災害であったせいか、萬代橋など個々の被害状況に触れている記事及び報道は見あたらない。真室川町の土木施設被害状況として、町は「河川堤防決壊百四カ所、橋十二橋」と報告している。
     この洪水でも、石橋の萬代橋は流れなかった。
     
     真室川町及位落合滝に住む佐藤儀一さんの談話を、佐藤貢氏(註8)が紹介。
     「昭和五十年八月六日、当日は父の命日で大勢の縁者が集まって法要が営まれていた。前日から降り続いた大雨で沢水は濁流となって増水、十時ごろから小降りになったが、一時ごろ轟音と共に大量の枝葉と根付の流木で滝壺が埋まり、石橋によってせき止められた。流木は道路上約一メートル、橋上までせり上がり、附近の住宅は危険状態となった。石橋の一部と欄干が流出した。水がひいた後、石材の一部は一〇〇メートル近くも流されており、壊された石橋の上に角材を並べて歩行した。」
     
     しかしながら、建設省東北地方建設局の見解は、次のようになっている。
     「─三島通庸と高橋由一にみる─東北の道路今昔」(註9)には、『眼鏡橋(萬代橋)の変遷』として「この石橋は明治十四年八月に完成した橋長一三間(二十三・四メートル)、幅三間(五・四メートル)の眼鏡橋(石造りアーチ)であり、その後、昭和五十年八月の洪水で流出している。現在の橋梁は、昭和五十一年十二月に架設され…」。つまり、橋梁建設の当事者である東北地建は「洪水で流出」としているが、「石橋の上に角材を並べて歩行」とし、大洪水でも石橋は流れなかったと、過去の経験を語っている及位に住む人々の話との乖離はあまりにも大きい。
     地元及位の佐藤さんは、最後に当時の状況をこう結んでいる。「石橋を修理しても再度災害がおこった時、また同じようになっては対応ができないこと、流れをやわらげるため新橋を作り、滝部分は第一段階から第三段階まで削り取り、流れを緩やかにしたため、当時の面影はなく現在の姿となっている。」
     もう一度「高橋忠義一代之物語」に戻る。及位では過去において、八・六水害に匹敵する水害を経験している。
     
    明治二十七年七月廿五日、午前六時頃より当村大水害にして、私宅も瀧の岩上五尺余も水打越候、其節私し方に而院内鉱山炭運送引受致居節に而、朴木沢え炭小屋二つ有之候処、炭小屋ならびニ馬車弐たい、荷車七台其外諸道具水害致、猶又宅に而は水車ならびに小屋其他石段そんいん、柱四間程欠落、庭植木不残、庭、泉水、水小屋、石灯籠に至る迄不残水害致、猶又其年炭運送も相成不申、其為損害弐千五百円位損害に相成申候、猶又朴木沢村には、佐藤岩次郎宅も座敷の上四尺程上り、幸吉宅右同断に御座候、其他鉱山出張所前の小屋共三軒流され候、佐藤岩次郎宅に而は家さい道具大半そん害、田畑其他七八百円そん害に相成可申候、前代未聞の事に候
     このような大水害にも、石橋はビクともしなかった。
     
  3. 石材と石工
     萬代橋については、古文書の発見により明治天皇巡幸の歴史とともに、石工の名が詳審になった。過去の真室川町の歴史上では、萬代橋について石材や石工の調査がなされた形跡は見あたらない。佐藤貢氏の調査により、これらが少しずつ明らかにされた。「高橋忠義一代之物語」から、「村遍を相尋候得共御用ひに不相成」として及位周辺には適材が無かったと判断したものか、県の担当者が不適と考えたものか判然とはしないが、「無拠院内P石を取運び」とあり秋田院内石を使用したとある。また石材の運搬は「其辛苦語言に難尽」と雄勝峠を越すのに苦労したことが伺われる。
     完成に至るまで、二度の水害にて石橋は破損しているが、この要因が水害のみならず石材にもその因があると判断したものであろうか、石橋の再架橋には院内石よりも硬い「及位の岩瀬山」より採取した石を使うことになった。これは佐藤貢氏が地元の高橋貞吉氏より聞き取りをした結果、分かってきた事柄である。及位小学校裏手にある岩瀬山には、石切場の痕跡が残っており、これらの事実を裏付けている。石工については、南陽市にある石橋「吉田橋」の石工であった、宮内村の吉田善之助(註10)であると伝えられてきた。「高橋忠義一代之物語」にも、善之助以下、石工十七人、土方十人、つごう三十人ほどで萬代橋の工事にとりかかったことが記されている。不幸なことに水害という自然の猛威による二度の石橋損壊により、石材の変更と共に石工の更迭があった。新しい石工は山形旅籠町の「片岡孫兵衛」であった。片岡孫兵衛は、萬代橋架橋三年前の明治十一年に、不朽の名橋といわれた坂巻の常磐橋を作っており、その力量は認められていた。  
     
    明治38年8月12日

    村祭りと日露戦争凱旋記念行列

    左上は模型飛行機

おわりに

 常磐橋も萬代橋も、かつての石橋ではなく永久橋として人々の暮らしを見つめている。石橋は水害の時、崩れるように作るべきだとの説が出ている。石橋に堆積する流木が災害を大きくする要因を排除する為である。この説には頷ける側面はあるが、治山治水について、もうすこし考える必要があろう。鶴岡の大泉橋もまたしかりである。残された石橋を明治の遺産としてどう保存していくか、我々に課せられた宿題であろう。
 山形県内における現存石橋は十一橋と認識していたが、村山市岩野の大沼与右衛門氏の研究により、幾代橋と康寿橋を追加することが出来た。感謝を申し上げたい。

註:

  1. 「山形の石橋─明治初期の山形での石拱橋とその設計の検討─」
       市村幸夫・井上馨 土木史研究第20号 平成12年5月1日
  2. 「明治の文化遺産〜眼鏡橋」大沼与右衛門 村山市郷土研究会 平成14年3月16日
  3. 「大町念仏講帳河北町誌編纂史料」河北町 平成3年3月1日
  4. 「杜第22号」大江良松『池田成彬、留学の夏・山形─(送米日記)序説』平成11年12月20日
  5. 「山形県災異年表 増補8版」 編集山形気象台 発行山形県農林水産部 平成10年3月31日
  6. 「片谷地村の歴史」渡辺信三 片谷地村歴史刊行委員会 平成6年10月25日
  7. 「及位村略誌」 菅原官兵衛編
  8. 真室川町東町在住 町文化財保護審議委員
  9. 「平成元年3月発行 監修/建設省東北地方建設局 発行/社団法人東北建設協会」
  10. 「及位村略誌」菅原官兵衛 昭和42年11月
作成:2002/08/28 最終更新:2002/09/02

石橋のページへ  いろいろ石橋紹介へ 山形の石橋へ


<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会