肥後の石橋・目鑑橋について

蓑田 勝彦 先生


はじめに
 熊本県には多くの目鑑橋があり、その中でも矢部町の通潤橋・砥用町の霊台橋は国の重要文化財に指定されている。これらの目鑑橋を造った石工としては、橋本勘五郎などの「種山石工」(八代郡東陽村種山の石工)が有名である。
 そして肥後の目鑑橋の大部分はこの種山石工によって造られたという考えが、なかば常識化しているように思われる。しかし、そのような「肥後の石工」や「種山石工」についての”常識”の中には、とても歴史的事実とは考えられない疑問点も多い。筆者はかつて、目鑑橋や石工について二つの文を発表しており(1)、それ以来関心を持って調査・研究を続けているが、それらの疑問点についてある程度納得できる結論を得られたので、以下それについて述べていきたい。

1.『肥後の石工』と『九州の石橋をたずねて』
 なぜそのような”常識”がひろがったのか、最大の原因は文学作品である今西裕行『肥後の石工』が本格的な歴史小説であり、ほとんど歴史的事実にもとづいて書かれたものである、という誤解によるものではないかと思われる。高校生向けに書かれた『くまもと文学紀行』は、熊本に関係の深い文学作品を紹介したものであるが、砥用町にある霊台橋架橋を題材とした『肥後の石工』のについては、そのあらすじと作品の一部を引用し、解説の部分には「上益城郡矢部町をはじめ、砥用町・御船町・東陽村、さらに鹿児島市に及ぶ入念な取材によって書かれた『肥後の石工』は歴史小説として高い評価を得、同年日本児童文学者協会賞を受けた」(2)とある。これを読めば多くの人が、『肥後の石工』はほとんど歴史的事実によって書かれていると判断するのではないかと思われる。
 また講談社文庫の『肥後の石工』の解説に引用されている中学生の感想文では《「永送り」という名前を聞いたのは、初めてであるが、昔そういうことがあったのは知っていた。それにしても、何とひどいものだろう。軍事上の秘密を守るための手段として,人を殺す(中略)見も知らぬ人を、理由などおかまいなしに殺していった。(中略)そこまで追いやったこの時代の背景を私は憎む》と記されている。(3)このように『肥後の石工』を読んだ人は、この作品に描かれている「永送り」など、筆者「蓑田」から見れば歴史的事実とはとても考えられないことを、事実であるかのように受け止めてしまうのである。
 なお文学作品としての『肥後の石工』と、歴史的事実との関係を検討した論文として、村田秀明「今西祐行」がある(4)。文学作品として、どのような歴史的事実が切り捨てられ、どのような点が強調されているかなどを中心にのべられており、本論文の趣旨とは直接的な関係はないが、参考になる点が多いので関心のある方はぜひ読んでいただきたいと思う。 
 山口祐造氏の『九州の石橋をたずねて』(5)は、九州の石造目鑑橋について、また肥後の石工と目鑑橋について、初めてその全体像を明らかにし、その重要性を指摘したすぐれた研究書である。しかし著者が工学関係者であることもあって、歴史的事実に関する部分については、資料による検討はほとんどなされておらず、関係者からの聞き取り=伝承がそのまま歴史的事実のように記されていることが多い。前著の内容を理解して、題名を替えて出版された『石橋は生きている』もその点はほぼ同様である(6)。たとえば、岩永三五郎が「岩永」の姓を許されたのは、薩摩における目鑑橋架橋の途中に洪水が起こったが、三五郎は洪水のさなかに橋脚に潜って安全性を確かめ、命をかけて橋を完成させた功績によると記されているが、(7)これは後述するように歴史的事実ではない。物語としては面白いが歴史的事実とは全くかけ離れた話である。また岩永三五郎を種山石工とし、橋本家の一員とする系図が記載されているが(8)、これも後述のように事実とは異なっている。そのほか今西祐行「肥後の石工」と同様に、岩永三五郎らが薩摩で多くの石橋を架けた後、「アーチの秘伝」を薩摩の石工たちに伝えたとか、目鑑橋の「秘密の仕掛け」を知っているとして「永送り」(暗殺)される危険があったなどの伝承が事実のように記されている。以下、肥後の石工と目鑑橋について誤って常識化されていると思われるなど、いくつかの点について述べていきたい。

2,肥後の目鑑橋の起こりについて
 肥後の目鑑橋について山口氏は、種山石工の祖といわれる藤原林七を「開祖」として《(林七は)曲尺による設計を何度も試して技を編み出し、遂に「和製アーチ技術」を開発したのである。苦労のすえ編み出した太鼓橋の技を秘め、子供に教える時も「この技は一族の秘伝だから他には絶対に洩らすな」と、堅く命じたという》(9)と記されておられる。しかし、林七が架けたとされる目鑑橋の開祖というのは、伝承の域を出ないものであろう。
 幸平和氏は「石工仁平のことども」の中で、種山石工よりも早い時期に目鑑橋を造ったと思われる石工に、現菊鹿町の仁平があり、明治8年(1875年)の「山鹿郡誌」に、彼が肥後の目鑑橋の祖と記されていることを紹介しておられる(10)。すなわち「山鹿郡誌」には、仁平は益城郡上嶋村の石工三九郎の子で、下内田村(現菊鹿町)に移住し、《肥前ニ赴キ石虹ノ法ヲ伝習シ(中略)天明二年阿蘇郡黒川ノ虹ヲ架ス、是当国石虹ノ始ニシテ、今所々ニ架スルモノハ仁平ヲ以ッテ祖トス》記されているという。この天明2年(1782)に架けられた橋は、黒川と白川との合流点に近い数鹿流滝の上方にかけられ、長さ25メートルほどの目鑑橋(橋揚橋という)であったが、昭和28年6月の大洪水で流出した(11)。このほか県北部には仁平が架けたものではないが、享和2年(1802)に架けられた豊岡橋(鹿本郡植木町)、文化11年(1814)の湯町橋(山鹿市)などがあり、種山石工による目鑑橋よりも早い時期のものが残されている(12)
 これに関連して津田欣一氏は、《長崎に根をおろした架橋技術が熊本県北に痕跡をとどめることもなく、いきなり県南に一気に伝わっただろうか(中略)、県北にもまた、工人たちがいたのではないか。そのような疑問に答える工人のひとりが仁平である》とし、豊岡橋・湯町橋などが《いずれも県北の地元の石工によって築かれており、これが仁平一派の作とすれば、県南の種山一派が肥後の眼鏡橋石工の集団を形成する以前に、県北に仁平を師とする眼鏡橋石工の集団?がいたことになる》と記しておられる(13)
 これらのことから考えれば、肥後の目鑑橋の起こりは、幸平和氏が述べられているように、「山鹿郡誌」に見られる下内田村(現菊鹿町)の石工仁平にあるとするのが自然であり、20年近くも前に明らかにされたことが、いまだに多くの人の常識とならずに、種山石工が肥後の目鑑橋の祖であるかのように考えられているのは、何とも理解しがたいことといえるのではないだろうか。

3.岩永三五郎と「種山石工」について
 「肥後の石工」は岩永三五郎であろう。近年取り壊されて大きな話題となった鹿児島甲突川の五大石橋(西田橋など)を造った石工棟梁として有名である。肥後国内でも彼がつくったとされる目鑑橋がいくつもあり、なかでも砥用町の雄亀滝(おけだき)橋は、後の通潤橋に影響を与えた水路橋として重要である。この岩永三五郎は、山口祐造氏などの書では「種山石工」の一人とされ、前述のように橋本一族の系図に入れられている(14)。それによると、岩永三五郎は藤原林七の子で、丈八(橋本勘五郎)の叔父にあたることになっている。このような系図がなぜつくられたのか筆者には理解できない。「藤原」林七の子が「岩永」三五郎で、孫は「橋本」勘五郎というのは、少し考えただけでもおかしい。ほんらい岩永三五郎と橋本勘五郎とはまったく別の家柄なのである。
 このことは、昭和58年に発行された『肥後読史総覧』にも明示されている通りである(15)。すなわち、岩永三五郎は八代郡野津手永西野津村の石工・宇七の子で「野津石工」であり、橋本勘五郎は種山手永種山村の石工・嘉八の子で「種山石工」である。岩永三五郎については、すでに筆者も述べたことがあり、その時に引用した史料にも《野津手永西野津村石工 宇七次男 三五郎 三十歳(文政四年)》とある(16)。また『肥後読史総覧』の石工系図を作成した花岡興輝氏のご教示によれば、岩永家と橋本家とは菩提寺も異なっているということも、同稿に述べた通りである。永松豊三氏も、種山石工の橋本家の菩提寺は野津の勝専坊であり、岩永三五郎の菩提寺は光台寺と指摘しておられる(17)。このように菩提寺が異なっているということは、両家がほんらい別の家柄であることを示すものであって、岩永三五郎が「種山石工」でないことは明らかであろう。

4、岩永の姓と橋本の姓について
 つぎに、岩永姓と橋本姓について述べたい。岩永三五郎については、鹿児島における五大石橋などの架橋の功績によって苗字が認められたという記述(18)が見られるが、何を根拠としているのか不明である。前記『肥後読史総覧』にある通り《文政四年(1821)六月、八代新地築立に付き普請中苗字御免、御惣庄屋直触、八代郡中石工惣引廻》を命じられ、文政13年(1830)3月に七百町新地築立の際の功績によって正式に「苗字御免、惣庄屋直触」となったのである。なお、石工としての功績によって苗字を認められたのは、管見によれば岩永三五郎だけであり、彼がいかに優秀な石工であったかは、前述の拙稿(19)引用の史料に詳しく記されている。
 つぎに丈八(橋本勘五郎)が苗字を認められた理由として、多くの書が通潤橋の架橋の功績によるとしており、山口氏は《通潤橋の出来映えは素晴らしかった。通潤橋の見事な出来栄えを聞いた藩主は丈八の功績称え、「橋本」の姓と「勘五郎」の名を贈って努力に報いた》(20)と記しておられる。確かに通潤橋は多くの水田を生みだし、優秀な技術によって築造された素晴らしい橋言えようが,丈八はその際は石工副棟梁だったのであり、棟梁の宇一さえ苗字をみとめられていないのに、丈八が苗字を認められる筈はないのである。丈八は『肥後読史総覧』にあるように、《寸志に付き、郡代直触仰付けられ橋本と改》めた。つまり金納により郷士の資格を得て、橋本姓となったのである。
 これは当然のことであって、当時はどんな技術が優れていても、大工や石工などの普通の職人が、その功績によって新しく苗字を認められることは、特別な場合に限られており(21)、藩政記録には目鑑橋やその他の通常の工事については、大工や石工などはその名前すら記されていない。工事関係者の名前で記されているのは、藩や手永・村の役人くらいのもので、藩政記録に石工などの名前は見られるのは特別例外的なことであり、まして技術によって苗字が認められるということは、絶対ないといえるくらいまれなことであって、岩永三五郎が石工としての功績によって苗字を許されたというのは、三五郎がいかに優秀な石工であったかを証明するものといえよう。大工や石工などで苗字を称する場合があれば、それは金納によるのが当然だったのであり、丈八が寸志にによって橋本姓を名乗るようになったということは、丈八の技術や功績が優れていたこととは何の矛盾もないことである。なお「丈八」が「勘五郎」になったことについて、山口氏は勘五郎の名を藩主から送られたとしているが(22)、丈八のような庶民が藩主から名前を贈られるなどということは、歴史的常識としては考えられないことである。

5、「種山組」と「野津組」について
 つぎに、「種山組」と「野津組」について述べたい。薩摩藩に招かれて西田橋などの「五大石橋」その他多くの石橋を架け終えて帰郷した岩永三五郎は、種山石工たちにとって「種山組」をつくらせて氷川以北を受け持たせ、自らは弟子たちの故郷である野津をとって「野津組」として氷川以南を受け持たせ、石工の地盤割をしたという(23)
 しかし前述のように、もともと岩永三五郎は野津の石工で、種山石工とは異なる存在だったのであり、晩年なってから肥後の石工の工事で二つ組が地盤割したという史料は見られないし、そういう「組」に肥後の石工たちが組織されていたという史料もない。むしろ、今までいろいろな史料を見ていると、種山石工・野津石工以外に各地それぞれの石工が活躍していたことが知られる。それらを一つ一つ記録していないので、ここまでまとめて提示できないが、それぞれの石工たちが「種山組」「野津組」のどちらかに属していたという記録は見られない。各地の石工とその業績についてまとめることができれば、そのことはいっそう明らかになるであろう。
 要するに、肥後の目鑑橋の工事で石工がどの地区を担当するかというような取り決めはなく、それぞれでそれぞれの石工が活動しており、また必要に応じて高い技術をもった石工が呼ばれて、居住地から遠い地区の工事も担当したのであり、それは目鑑橋以外の工事についても同様のことでもある。もし「種山組」「野津組」という組があるとしたら、それは種山地区の石工グループ、野津地区の石工グループということで、師弟関係によって結ばれた「組」か、または互いに協力しあうための「組」という程度のものだったのではないかと思われる。

6、「永送り」について
 つぎに「アーチの秘伝」「秘密の仕掛け」「永送り」など、についてふれておきたい。これらは今西祐行氏の『肥後の石工』のテーマにかかわる重大な歴史的背景として扱われており、山口氏の書にも表現は異なっているが同様のことが記されている。すなわち、薩摩で多くの目鑑橋を架けた岩永三五郎ら肥後の石工たちは、鹿児島を守るのに石橋を簡単に崩壊させることのできる”秘密の仕掛け”を知っているために、秘密裡に暗殺=「永送り」されることになった。今西氏の『肥後の石工』では、大部分の石工が「永送り」にあって殺されたが三五郎だけがそれをまぬかれたことになっており、山口氏の著書では、三五郎の深慮によって全員が「永送り」をまぬかれて、無事に肥後に帰ることができたことになっている。
 「アーチの秘伝」「秘密の仕掛け」は、土木工学的な知識が必要なようで、一般人はなんとなくそういうものかと思ってしまうが、よく考えてみるとやはりおかしいことである。「アーチの秘密」というのは、目鑑橋の設計には円周率に関する知識が必要で、当時の日本人はほとんどの人が円周率の知識をもたなかったので、それを秘伝としていた種山石工しか目鑑橋の設計は建造はできなかったということのようであるが、実際には目鑑橋は種山石工以外の多くの石工が棟梁となって造っており、後述する備前の石工たちも、肥後・豊後などで多くの目鑑橋を架けている。種山石工のふるさと東陽村に造られた”石匠館”にある資料を見ても、円周率の知識はなくても、円型の木枠の台をつくってそれに石を積んでいけば目鑑橋はできそうで、棟梁のもとで何年か経験を積めば「アーチの秘密」などは必要ないのではないかと思われる。これについて工学博士の太田静六氏は、アーチ計算は難しいといわれるが、《わが国の大工さんたちが難しい計算などしないで、五重塔や天守閣を建ててしまうのと同じように、要領さえつかめば計算などしなくてもアーチ橋はかけられるし、かけてきたと思う》と記しておられる(24)
 それでは、目鑑橋の設計は実際にはどのように行われていたのだろうか。小山田了三氏の『橋』には次のように説明されている。小型の石橋の場合は、架けようとする橋の近くの平地に、実物大の、中心を同じくする二重の円(アーチ)を描き(その半径の差が輪石の厚さになる)、そこに円の中心からほぼ3度の角度で線を引く。二つの円弧とその直線でできた台形が、1つ1つの輪石の大きさとなるので、それに基づいて工事が行われたという。大きな目鑑橋の場合は縮尺の設計図が描かれて、同様に輪石の大きさが決められてのであろう。要するに、小山田氏は《石橋のアーチの出し方を、πの計算から決められたように書いたものもあるが、円弧の型は、円の一部であって、πの計算から求められるようなものではない》と説明しておられる(25)。「ア−チの秘伝」などはなくても目鑑橋は架けられるのである。
 「秘密の仕掛け」というのは、前述の今西祐行『肥後の石工』には《これらの橋には、ひとつのひみつがあったらしい。どの橋も、中央のひとつの石をとりはずすと、重力の関係で、つぎつぎと石がくずれおち、かんたんにとりこわせるしくみになっていたという。敵がせめてきたときに、橋をおとして城をまもるしかけだったのである》(26)と説明されている。しかしこの「中央のひとつの石」というのは輪石(アーチ部の石)の一つであり、簡単にはずせるというものではない。輪石どうしは、たがいに巨大な力で押し合いながら円形を保ち、橋の重量を支えているのであって、その1つを他人に気付かれることなく外すことなくということは絶対にできないであろう。
 これは「秘密の仕掛け」ではなく、構造上そうなっているのであって、そのことを知っているから「永送り」(暗殺)される、ということは起こりうるはずがない。また当時の常識としても、他領から招いた技術者を秘密のうちに殺すなどということは考えられない。寛政年間(1791〜97)球磨川の船乗りが、日向の大淀川の上流の舟運開発に招かれた例でも、藩の役所が関係しており、正式な往来手形を所持して他領に赴いており、帰着したらそれが確認されている(27)。この船乗りたちは八代郡藤本村の百姓であるが、岩永三五郎の場合は、当時の身分は「郡代直触」である。これは惣庄屋と同じく郡代の直接支配を受ける武士身分の一つである。本来の武士身分ではないにしても、そのような岩永三五郎が「永送り」されるということになれば、藩どうしの関係にも支障がでることが考えられる。このようなことから、筆者は「アーチの秘密」「秘密の仕掛け」「永送り」などは、そのような伝承はあったかも知れないが、それはあくまでも物語であって、歴史的事実としてはあり得ないことと考えている。

7、通潤橋の石工棟梁について
 矢部町にある通潤橋は、熊本県人では知らない人はないと言えるくらい有名で、江戸時代末期に矢部の惣庄屋=布田保之助らによって、新しく水田を開くための水路を通す目鑑橋として造られたもので、いまも美しい姿を見せている。この橋を作った石工棟梁は、種山石工の宇市であるといわれている。ところが、他の種山石工は「種山 丈八」「種山 勘平」のように記されている。したがって、諸書に記されている「通潤橋のたもとにある石碑には石工頭として「矢部小野尻村 宇一」と刻まれている。「通潤橋を造った石工は種山石工の宇市」というのは誤りで、地元の「矢部小野尻の宇一」ではないか、という考えを研究会で発表したところ、多くの人に注目されて「熊本日日新聞」のも”新説”として紹介された(28)。(江戸時代の記録では同一人物の名前で、宇市と宇一のような表記の違いは珍しいことではない)。
 ところがそれから2ヶ月ほどたって、矢部町の研究者から史料のコピーをいただいた(29)。それを見ると、矢部町小野尻の宇市は種山から移り住んだと記されたいる。史料は「送状」と題されており、種山の役人から矢部の役人にあてた書類の控えである。宇市が父の尋八ら6人で、種山から当分移住して石工の仕事をすることになったが、種山では別に支障はないので、矢部の方で受け入れてくれるように、という内容である(6人のうち人物が分かるのは宇市と父母の3人で、他の3人は不明であるが、宇市の兄弟と思われる)。これは天保10年(1839)2月の文書であり、このとき父の喜八は43歳と記されているので、それから計算すると宇市は20歳になる。
 ところで、通潤橋が完成したのは安政元年(1854)で、宇市が35歳のときである。この間ずっと宇市は矢部に留まって、白小野・川内川・田吉・金内川などの眼鑑橋をかけ、腕をみがいていった(30)。職人が家業に本格的に従事するようになるのは、通常15歳からである。宇市は種山で5年間ほど修業し、矢部にきて15年後に石工棟梁として通潤橋を完成させたことにある。宇市は「種山石工」として出発はしたが、通潤橋完成の段階では「矢部の石工」になっていたといえよう。宇市はこのあといつまで「矢部の石工」であり続けたのであろうか。宇市は現在東陽村種山の橋本家の墓地に合葬されているが、伝承によると種山に帰って間もなく死去したという。宇市は「種山出身の石工」ではあるが、「種山石工」というよりも、石碑に刻まれているように「矢部小野尻村の石工」だったといえるのではないかと思う。なお、この通潤橋の石工「副頭」=副棟梁は弟の丈八(橋本勘五郎)であり、通潤橋の石工は種山石工が中心であったといわれているが、石碑に刻まれている石工の名前は41名であり、その居住区をみると種山石工は10名、矢部など緑川流域の山間部(益城地方)の石工が20名、その他が11名であり、数の上からみれば種山石工は四分の一、緑川流域の石工が約二分の一となっており、やはり地元の石工が大きな比重をしめていることがわかる(31)

8、備前の石工の肥後における活躍
 いままでの肥後の石工や目鑑橋についての研究で、ほとんど知られていなかったのが肥後(豊後の細川領を含む)における備前石工の活躍であろう。彼らの仕事で今まで知られていたのは、文政6年(1823)の永山目鑑橋(32)、同八年の相生橋(藤田橋ともいう)(33)、同10年(1827)の馬門目鑑橋の三つの工事であろう(34)。しかし各種の資料を見るとつぎのように約10年間で20以上の工事にたずさわっている(出典は準備中の別稿に記す予定)。

《備前の石工 関係年表》
文政6年(1823) 永山橋(目鑑橋)を架ける(菊池市、文政12年5月流失)
赤星・出田両村用水井出口磧の工事(菊池市)
藤田村前岩下磧所の工事(菊池市)
文政7年(1824) 大林寺村の久兵衛とともに橋田堰を改修(七城町)
原村井手の貫の工事(菊池市)
苧生田村の磧所の工事(三加和町)
長田村の磧所の工事(菊池市)
田町川に目鑑橋を架ける(南関町)
文政8年(1825) 相生橋(藤田橋)を架ける(翌年9月完成、菊池市)
河原手永四町分村の五斗橋を架ける(翌年9月完成、菊池市)、現岩下橋
上長田村の鳴石堰の工事(南関町)
文政9年(1826) 阿蘇北向山に道路を開削(翌年冬完成、久木野山・大津町)
多久村の井手の工事(文政11年まで、鹿北町)
大利橋(目鑑橋)を架ける(産山村・久住町)
米加橋(目鑑橋)を架ける(久住町)
文政10年(1827) 馬門橋(目鑑橋)を架ける(砥用町)
今村の大磧を工事(砥用町)
「備前石工ニ限御国雇入被仰付候ハ文政一〇年七月也」(古閑家文書)
戸豊水村への用水の貫の工事(天保4年まで、菊池市)
尋永新川の工事で、走潟の堀切の石畳を工事(熊本市)
文政11年(1828) 七里川橋(目鑑橋)を架ける(久住町)
文政12年(1829) 荒尾船江の工事が訴訟(荒尾市)
天保元年(1830) 平野川の目鑑橋を架ける(三加和町)
天保4年(1833) 戸豊水村への用水の工事を終える(文政10年の項参照)
天保6年(1835) 勘五郎、岡山市阿津の宝積院に供養塔を建造(松岡正雄「肥後の目鑑橋」)
天保13年(1842) 鶴崎の細川藩の米蔵の基礎の石材の工事(大分市)
尋永元年(1848) 備前石工久米蔵・後藤松五郎岩戸橋を架ける(翌年10月完工、大分県荻町)
明治4年(1871) 小坂勘五郎没(5月15日、78歳、上記「肥後の目鑑橋」)

 「備前の石工」の語だけ記されている史料が多いが、文政9年に完成した相生橋(菊池市)に関しては、その上流部に記念の石祠が残されており、備前国児嶋阿津村の勘五郎(棟梁)など9名の永記されている。(35)。また同10年に架けられた馬門橋(砥用町)のたもとの石柱には、勘五郎と繁吉の2名の名が刻まれている(36)。名前が判明するのはこの10名と、嘉永元年に大分県荻町の岩戸橋を架けた2名であるが、これ以上の人数が来ていたことも考えられる。
 なぜ備前の石工が肥後にきて、このように多くの工事に携わったのか、理由は全く不明であるが、肥後で目鑑橋が多く造られはじめた時期、岩永三五郎の活動とほぼ同じ時期に、じつに多くの多様な工事に従事している。かれらはその技術の優秀性を認められたためであろう、文政10年以後、藩の公認をうけて藩営の工事にも従事するようになった。天保4年に戸豊水村への用水工事を終えた後は、中心人物の勘五郎は郷里の備前に帰ったようであるが、その後も肥後または豊後で活動した者もあった。かれらの技術は肥後の石工にかなりの影響を与えたのではないかと思われる。文政12年(1824)迫間川に架けられた目鑑橋の場合は、はじめ備前の石工に依頼する予定であったが、経費が高くつくというので地元の石工=伊助に工事が任された。伊助によって造られた迫間端はいまも当時のままの姿を残している(37)。種山石工の「丈八」が後に橋本「勘五郎」と名前をかえたのは、もしかしたら優秀な石工であった備前の石工「勘五郎」の名を受け継いだのではないかと筆者は考えている。

9、御船町の門前川橋について
 本稿が一応完成した後、門前川橋(西木倉橋)が文化5年(1808)に完成したことを記した史料を見出した。これは、本稿(ニ)の「肥後の目鑑橋の起こり」に関する重要な問題を含んでいるので、そのことについて追記しておきたい。門前川橋は、上益城郡御船町の木倉小学校の横を流れる小川に架けられた小さな橋で、山口氏の『石橋は生きている』には、長さ7叩横幅2.8辰撚撤劭廓(1850)頃にできた、と記されている(38)。現在はコンクリートで補強されており、粗末な見栄えのしない橋になっている。このたび見出しした史料は、木倉手永惣庄屋=光永円右衛門の功績に関するもので、次のような文である(39)

一、目鑑橋壱ヶ所 長四間、幅九尺
 但、西木倉村懸住還筋谷川ニ従前々土橋掛来申候処、右川平日は渇水程ニ御座候得共、強雨の節は別て増水強、度々流失仕、人馬の往来絶難渋ニ付、水引候得は早速々々懸方仕候ニ付ては、竹木の費旦農繁の砌夫立彼是、不一形難渋仕居申候ニ付、文化五年奉願、目鑑橋懸方ニ相成候処、其後往来の難渋も無之。一廉御座候事

 この史料により、惣庄屋光永円右衛門の時代に、それまで土橋だった門前川橋が、文化5年(1808)に目鑑橋に架けられたことが分かる。橋の長さや幅は山口氏の著者の数字とほぼ一致する。
 この門前川橋がなぜ注目されるのか。門前川橋は、橋のアーチ・リングを形成する一つ一つの輪石(迫石=せりいし)の間に太柄(だぼ、輪石一つ一つを結びつけるクサビ)がはめ込まれているが、これについて太田静六氏は、各輪石の緊結をはかり、アーチ橋全体の変形や崩壊を予防する策を講じているものであり、日本の石造目鑑橋が中国の石造アーチ橋の造り方を受け入れたことの証拠である、と説明しておられる。門前川橋はさらに、アーチ・リングの外側に、もう一つ全く形状の異なる細長いアーチ・リングをめぐらして、側壁石の圧力が輪石に不均衡に働かないように工夫しており、特に珍しい貴重なもので、当然県文化財になる価値をもつと記されておられる(40)
 肥後の石造目鑑橋の起こりは、下内田村(現菊鹿町)の仁平にあることは先述した通りであるが、彼が、安永3年(1774)に試作したという洞口橋の輪石にも太柄がはめ込まれている。仁平が造った最初の本格的な目鑑橋である橋場端(長陽村)は、先述のように天明2年(1782)に造られた肥後最古の目鑑橋であるが(洞口橋を除く)、この橋の輪石にも太柄がはめ込まれている。これを造った石工の理左衛門らは、仁平から目鑑橋の技術を受け継いだ人々であろうといわれている。門前川橋はこれらの橋と全く同じ技術でつくられているのである。年代も文化5年(1808)と豊岡橋に接近している。このことは、門前川橋が仁平の技術の影響を受けて造られたものであることを示しており、肥後では北部地方でつくり始められた石造目鑑橋の技術が、中部の御船町(宇城地方)に伝えられ、さらに種山(八代地方)など南部に伝えられていったことを推測させるものといえよう。岩永三五郎をはじめとする肥後南部地方の石工たちが、石造目鑑橋を造りだすのは、このあと文政年間(1828〜1829)以降である。
 じつは技術的には、輪石を太柄で緊結しなくても、目鑑橋の強度には大きな影響はないということで、この後は輪石を太柄で緊結する工法はとられなくなり、前述のもの意外には太柄をで、この後は輪石を太柄で緊結する工法はとられなくなり、前述のもの意外には太柄をはめ込んだ橋は造られなくなったようである。門前川橋は植木町の豊岡橋とともに、中国伝来の工法を採用した橋としてはただ2つ残された橋であり、しかも、豊岡橋についで肥後で2番目に古い目鑑橋である。現在は自動車などの通行はなく、人の行き来だけに利用されているようであり、コンクリートの補強をはずして、貴重な文化財として現状に復して保存をはかることが必要ではないだろうか(41)。  

10、旧中山手永の目鑑橋について
 新しく旧中山手永の目鑑橋の成立時期についての史料が見出されたので、これも追加して紹介しておきたい。江戸時代の中山手永は、ほぼ現在の下益城郡中央町と豊野村に相当し、かなりの目鑑橋が見られる。つぎに紹介する史料は中山手永惣庄屋の小山喜十郎表影に関するもので、文政13年(天保元年=1830)のものである(42)。              

文政十一年出来  一、目鑑橋 一ヶ所 今  村 (1)
上口十六間、高拾間、幅壱丈  佐俣村
同十二年出来 一、同右   一ヶ所 小筵村  (2)
上口弐拾五間、高四間、幅壱丈 佐俣村
同年出来 一、右同  一ヶ所 下糸石村 (3)
上口弐十弐間、高三間、幅壱丈 巣林村

 右は中山手永の儀、宇土・八代より砥用・矢部えの往還筋、……荷馬通路不丈夫ニ付ては、付産物出等果敢々々敷無之、砥用原町を初、堅志田町・小川・松橋町々不便利、……喜十郎近年来心配仕、……何レも丈夫ニ出来仕、右の外小筵村・佐俣村懸ニタ俣小橋、下郷村 ・下糸石村懸鬼迫川、山崎村懸渡瀬、都合三ヶ所の儀も……目鑑橋御普請、当時取懸居申候、尤当春中ニは夫々出来仕筈ニ御座候同じ小山喜十郎の表彰に関する史料で天保6年(1835)のものがある(43)

一、文政十一年八月今村・佐俣村懸ニて馬門川目鑑橋一輪 (1)
一、同十二年十二月小筵村・佐俣村懸ニて二俣川目鑑橋一輪 (2)
一、同年同月下糸石村・巣林村懸ニて柳塘目鑑橋一輪 (3)
一、同十三年四月下糸石村・下郷村懸鬼迫川M工鑑橋一輪 (4)
一、同年同月小筵村・佐俣村懸ニて二俣福裏渡目鑑橋一輪 (5)
一、天保二年四月山崎村駄渡川目鑑橋一輪 (6)
一、同三年十月巣林村薩摩渡荒子橋一口   (7)

 右七ヶ所ニて入目銭三拾三貫目、夫数三万五百拾七人と記されている。7つの橋が文政11年(1828)から天保3年(1832)までの5年間に架けられたのである。このように一時期に集中して造られたのは、「文政十年、中山手永非常の洪水、翌年猶又度々の洪水」に見舞われたためであった。(1)〜(7)の橋がどこにあたるかを記すと、
 (1)は中央町と砥用町との境界付近にある「馬門橋」
 (2)は「二俣橋」のうち、西側の公園のある方に架けられている橋
 (3)は不明で、現在はなくなった橋と思われる。
 (4)は現在「三由橋」と呼ばれている、豊野村の橋
 (5)は「二俣橋」のうち東側の、馬門橋の下流にあたる所に架けられている橋
 (6)は豊野村の、国道218号線のすぐ北側に見える「山崎橋」
 (7)は豊野村の、「薩摩渡」と呼ばれている目鑑橋と思われるが、この史料には「荒子橋一口」と表現されており、天保3年(1832)の段階では まだ目鑑橋になっていなかったものと思われる(「荒子橋」というのは、切石を積上げた橋脚に、木の板を渡した丈夫な橋を指す)。

 これらの橋を造った石工については何も記載されていないが、(1)の馬門橋は前述のように備前の石工勘五郎らによるものであり、他の橋もほとんど同じ時期に造られていることから考えると、備前の石工たちによって架けられた可能性があると思われる。『豊野村誌』には《この地における目鑑橋や石垣・板石橋などの多くは、安見村の古田安兵衛・中間村明石源之助に代表される石工らによって完成している》と記されているが(44)、検討の余地があるものと考えられる。
 なおこのころから、多大の経費を要する石造目鑑橋が多く見られるようになったが、その理由について考えてみたい。直接的な理由としては、石造目鑑橋の技術が普及したことがあげられるが、その外にこの史料に、これらの橋が砥用原町・堅志田町・小川町・松橋町を結ぶと記されているように、この時期には商品や人々の従来が活発化したため、すぐ崩壊するような橋ではなく、恒久的な石造目鑑橋が必要とされるようになったことが考えられる。また、これらの架橋の経費は多くの場合、近辺の富俗な商人や農民などからの寸志(寄付金)によってまかなわれており、経済の発達がその背景にあるものと思われる。

おわりに
 以上、肥後の石工や目鑑橋について誤った常識化していると思われることや、今まで明らかでなかったことについて、数項目にわたって述べてきたが、最後に後一つ述べておきたい。それは石工の仕事についてである。目鑑橋について関心の強い人は、「石工」といえば「目鑑橋」を連想するほど「肥後の石工」と目鑑橋は関連が深いように思われている。しかし備前の石工の項で述べたように、石工の仕事は目鑑橋以外に、用水路のために川に磧(堰)をつくる工事、用水路の貫(トンネル)の堀削工事、道路の開削(岩山の部分を崩したり、橋をつくる)の工事、川の流れの制御(刎=ハネや石畳をつくる)の工事、船江(港)の工事、それに岩永三五郎の場合は干拓地の堤防や井樋の工事など多様な仕事があり、石工の評価はこれらの多様な面を考慮にいれおこなうことが必要であるということである。そのような観点から現在「備前の石工」ついて、くわしく検討するための別稿を準備中である。備前の石工・肥後の石工について、これからも研究を深めていきたいと思っており、大方の御教示をいただければ幸いである。


<注記>

(1)  蓑田勝彦「岩永三五郎と雄亀滝橋について」(熊本近世史の会「年報熊本近世史」平成元年度・2年度合併号)、および蓑田勝彦「幻の目鑑橋一馬見原三河橋(蘇陽町)について―」(熊本近世史の会「年報熊本近世史」平成4・5年度号)
(2)  熊本県高等学校教育研究会国語部会『くまもとの文学紀行』 (平成7年) 94〜97頁
(3)  今西祐行 『肥後の石工』 (講談社文庫)181〜182頁
(4)  熊本近代文学研究会 『熊本の文学 第三』 (審美社、1996年)所収
(5)  山口祐造 『九州の石橋をたずねて』 上・中・下三巻 (昭和堂印刷、1975〜76年)
(6)  山口祐造 『石橋は生きている』 (葦書房、1992年)
(7)  前註(6)の書、58頁
(8)  前註(6)の書、256頁
(9)  前註(6)の書、5頁
(10)  仁平については、幸平和「石工仁平のことども」=太田静六編『九州のかたち 眼鏡橋・西洋建築 (西日本新聞社、昭和54年) 216〜219頁、から引用。なお幸平和氏に資料を提供された竹下輝幸氏(菊鹿町)の御教示によれば、「山鹿郡誌」未刊の資料で、徳丸潮氏(菊鹿町)の所蔵である。(熊本県立図書館にも同名の史料があるが、それとは別のものである)。県に報告した文書の下書きと思われる。
(11)  この仁平が架けた目鑑橋(橋場橋)については、『肥後国誌』所収の「南郷事蹟考」にも「石橋土俗目金橋ト伝フ天明年間石橋ト成ル 」と記載されている(後藤是山編『肥後国誌』下巻578項、青潮社、昭和46年復興)。このことは前(10) の幸氏の文に指摘されている。
(12)  前註(10)の書、219項
(13)  津田欣一「断想、石工のふるさと」=前註(10)の書、228項
(14)  前註(6)の書、256項
(15)  松本雅明監修『肥後読解史総覧』(鶴屋百貨店、昭和58年)1058項
(16)  前註(1)の拙稿「岩永三五朗と雄亀滝橋について」
(17)  永松豊三「岩永三五郎」=前註(10)の書、224項。なお、この光台寺はもと滝北町にあったが、今は廃寺となっている。
(18)  前註(6)の書、58項
(19)  前註(16)に同じ
(20)
(22)
 前註(6)の書、141項
(21)  同じ職人でも、熊本城下町で弓・槍・鉄砲その他で、藩の仕事を命じられる職人たちは親子代々扶持米を給され、年功などにより苗時を許される者も多かった。また益城町小池の土山瓦師や八代高田の焼物師、八代宮地の御用紙漉なども代々扶持米を給されており、苗字を許されている場合が多い。
(23)  前註(6)の書、242項
(24)  前註(10)の書、6項
(25)  小山田了三『橋』(法政大学出版局、1991年)237〜239項
(26)  前註(3)の書、8項
(27)  蓑田勝彦「近世球磨川の舟運について」(『歴史手帖』 6‐12号、1978年12月号)
(28)  『熊本日日新聞』1996年10月12日号
(29)  矢部町の倉岡良友氏より御提供を受けた。原史料は、布田保之助の子孫の布田氏(熊本市在住)の所蔵とのことであるが、未確認である。なおこの項については、甲佐高校「甲佐高校図書館報」 第28号=1997年2月28日号とほとんど同文である。
(30)  笹原佗助『自治之亀鑑  為政之権化 布田保之助惟暉翁伝』 (布田翁遺徳顕彰会、昭和13年)77〜80項
(31)

 通潤橋のたもとの石碑に記載による。なおこの碑面は前註(30)の書『布田保之助伝』に記載されているが誤りが多い。貴重な資料と考えるので、筆者が調査した結果を、長文であるがここに紹介しておきたい。
《通潤橋の石碑銘》
 通潤橋(目鑑橋)の南のたもとに、通潤橋の完成を記念する高さ2メートルをこすような大きな碑が建っており、正面に「通潤橋」とあり、裏面には、「嘉永五年壬子十二月起功、安政元年甲寅八月成、郡代 上妻半右衛門、惣庄屋 布田保之助、手附横目 石原夫兵衛、同 石坂禎之助、塘方助役 間部市太郎」とある。
 その南隣に三段重ねの補助石碑があり、工事関係者の名が刻まれている。第一段階左側には「通潤橋建築中勉勤之銘」として「会所手代 修築中用掛 高橋文次、同副 工藤宗次郎、修築中惣豁 佐野一郎右衛門 石原平次郎、水道開拓惣豁 佐藤伝兵衛 本田仁一郎、同用掛 渡辺半左衛門 井手仁三助 猪左衛門」とあり、(裏面には何も刻まれておらず)続いて右側には「井手下庄屋にて修築用掛 原田平右衛門 渡辺太郎兵衛 井手下庄屋 原田理兵衛 岩崎清蔵 弥太郎 甲斐清兵衛、井手下村役員 畑村 宗七 繁右衛門 新左衛門、小原村 斎助 儀助 文助、長野村 円助 栄七、田吉村 藤七 九助 善助、新藤村 源助 桂七 九右衛門 善助、小ヶ蔵村 藤助 林左衛門、白石村 嘉兵衛 渡辺両助、犬飼村 藤七 円七(正面にもどって)宗八 源左衛門  新兵衛 文助、牧野村 嘉平次 惣右衛門」と村々の役人の名が刻まれている。
 第二段正面からは「通潤橋建築石工頭 矢部小野尻村 宇一、同副頭 八代種山 丈八、副並 種山 甚平、(つづいて左側の面に)同 栄七、同 岩吉、矢部 善七、管尾 繁八、中山 庄平、同 直八、同 永八、砥用 伝八、木倉 嘉次衛門、同 半助」と、一三名の石工のリーダーが記され,続いて「石工」として「矢部 惣左衛門、同 銀兵衛、同 九平、同 新左衛門、天草 惣五郎、同 源兵衛、同 亦右衛門、同 小平、甲佐 善右衛門、同 庄八、種山 善七、同 直助、同 丈作、同 次平、同 甚作、同 伊勢松、中山 久平、同 加左衛門、豊後 岩吉、(つづいて裏面に)砥用 庄左衛門、同 佐兵衛、木倉 両助、河江 身助、同 多十朗、芦北 虎吉、 (つづいて右面に)野津原 喜太郎、熊本 鉄次郎、同 徳次郎」と28名の石工が記されている。
 それに続いて(二段目右側に)「修築石運輸頭 高田 勝平、高瀬 四朗助、熊本 吉平、同、又八、同 芳右衛門、同 升平、同 円右衛門、同 伊八、同 猪之吉」 「台築番匠頭矢部藤木村 茂助」 「用掛番匠頭 矢部小原村 宗十郎 同津留村 五兵衛」 「井手条石工受負頭 田浦 勝平、矢部 久五郎、種山 祐助、 同 松蔵」 「井手築土手受負頭 天草 林助、同 栄八、矢部 新七、、同 佐右衛門、貞八、阿蘇 兵右衛門」と記されている(三段目=一番下の段には、何も記されていない)。

(32)  永山橋については松岡政雄 『肥後の眼鏡橋』 (日本談義社、昭和53年)に詳しい。
(33)  相生橋についても同上書参照。ただし勘五郎ら備前の石工が初め架けた段階では、相生橋は目鑑橋ではなく木の橋であった。 このことについては別稿に述べる予定。
(34)  馬門橋については太田静六 「砥用町の石造眼鏡橋」 (『砥用町史』 下益城郡砥用町役場、昭和39年―付録編)に詳しい。
(35)  前註(32)の書9〜10頁に、石祠に刻まれた備前石工の名が記載されているが、不備があるので筆者(蓑田)が現地調査で確認した結果を紹介しておく 《備前国児嶋郡阿津村 「棟梁」 勘五郎、同村 長十郎、同村 十吉、同村 萬吉、 同村 惣次郎、 同村 伊太郎、 山坂村 市兵衛、 同村 久蔵、同村 與平》。
(36)  前註(34)の書、付録編49頁
(37)  西迫間村前迫間川は 「橋の間十弐間余…備前石工を以築立候得ハ雑用も相増申候ニ付、所柄石工え申談、可成丈入目銭相減候様取計、…同(文政)十二年四月迄堅固成就」 (熊本大学付属図書館に寄託=永青文庫9−21−13「町在」天保2年)とあり、備前の石工の場合経費が高いので、地元の石工に工事を依頼したことがわかる。
(38)  前註(6)の書、363頁
(39)  熊本大学付属図書館寄託 「永青文庫」 9−21−9 「町在」 文政12年
(40)  前註(10)の書、22〜26頁
(41)  この (九) の項全体、前註(10)の書、216〜219頁参照。
(42)  熊本大学付属図書館寄託 「永青文庫」 9−21−10 「町在」 文政13年
(43)  同上、 「永青文庫」 9−22−6 「町在」 天保6年
(44)  豊野村史編纂協議会 『豊野村史』 (豊野村、平成3年)391頁
 太田静六『眼鏡橋ー日本と西洋の古橋ー』(理工図書、昭和55年)

[追記]
 「目鑑橋」 の標記について、通常は 「眼鏡橋」 と記される場合が多いが、当時の史料には必ず 「目鑑橋」 と記されている (「車橋」 もまれに見られる)。 「眼鏡橋」というのは近年の表記と思われるので、高校の教科書で江戸時代以前の 「大阪」 を 「大坂」 としているのにならって、 「目鑑橋」 と記した。
 また、本稿作成に際して石工仁平の出身地菊鹿町の歴史に詳しい徳丸達也氏・幸平和氏・竹下輝幸氏その他の方々の御教示を得た。記して感謝の意を表す次第である。

1998年1月16日


 以上、蓑田勝彦先生が「熊本県高等学校 地歴・公民科研究会研究紀要第28号別冊」に、1998年3月発表されたものです。先生の許可をいただくことができ、ここに紹介致しました。先生の目鑑橋研究に敬意を表すると共に、本ページ作成を快くご承諾された先生のご好意に深く感謝申し上げます。先生は長年にわたり古文書をはじめ現地の史料を克明に調査され、肥後の石工や目鑑橋に関し一般常識化された伝承と異なる歴史的事実を次々と解明しておられます。古文書解読が苦手な私達にとって貴重な資料となるばかりか、石橋に限らず調査研究の指針とすべきものと思っています。
 史実と異なる単なる伝承が事実として伝わってしまうことは恐ろしいことです。多くの方に閲覧されるWEBページも、間違いや単なる憶測情報の発信は許されません。そのような意味でも、先生の調査研究は手本となります。今、インターネット情報の信頼性が問われています。私たちも、発信情報の正確さを更に重視し、より確かなページ作りに努めなければならないと思います。
 なお、先生は現在も調査研究中で、既に本ページ掲載内容とは異なる部分もあるかと思います。更には、私たちの転記ミスによる誤字・脱字・間違い等も残っているかも知れません。気付き次第訂正して参りますが、お気付きの点等ございましたら、お知らせいただければ幸いです。(熊本国府高等学校パソコン同好会)

 最終更新:2008/02/27

<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会

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