肥後の石橋とは?
 ・・・ 熊本の石橋のこと、どこまで知ってますか? ・・・ 
 

 肥後(熊本)の石橋(めがね橋)を知るためには、八代市東陽町(旧八代郡東陽村)を訪ねられることをおすすめします。ここ東陽町こそ「肥後の石工」たちが育った「旧種山村」だからです。ここは、江戸末期から明治の初期にかけて、日本に近代西洋工法が紹介されるまでの間、アーチ式石橋を日本国中に次々と造っていった「肥後の石工(種山石工とも)たち」のふるさとなのです。「石匠館」という石橋の博物・資料館もあり、石橋や石工を知るのにも最適な場所だと思います。東陽町にも多数のめがね橋が残っています。

 全国のアーチ式石橋(西洋工法技術の影響を受けない明治初期までに架設された)の半数近くが熊本に残っています。(山口祐造著「石橋は生きている」の「県別石橋一覧表」によると、江戸時代までに架けられた日本のアーチ式石橋の40%以上が熊本!注:最近のデータとは少し異なる)

 中でも、東陽町から山を越えた緑川流域には、霊台橋、通潤橋を筆頭に80基以上(一覧表)が確認されており、名実ともに「石橋の里」とも言えます。是非一度、訪ねてみてください。便利な建設機械がない時代、人力で一段一段積み上げられた素朴で力強いアーチの美しさに感動されることでしょう。更には、架橋に携った住民や石工たちの心の叫びも聞こえてくるものと思います。


  
なぜ、熊本に石橋が集中しているのでしょうか?
 
 @「加工しやすい岩石」(9万〜30万年ほど前、阿蘇山の大噴火で噴出された溶結凝灰岩)に恵まれている」ことも大きな要因です。加藤清正による熊本城の石垣が特に有名ですが、その城つくりに従事した石工や住民のA「石加工・利用技術などのノウハウが、その後の棚田や用水路、干拓や堤防工事などに生かされて残っていた」こと。「種山の石工」たち以前に活躍した「仁平」は、加藤清正が熊本城築城のために近江(現在の滋賀県)から呼び寄せた「近江石工」の子孫です。歴史というものは、目には見えない糸によって、互いに複雑に絡まりあっているもんだと感心させられます。更には、洪水で流されない石橋を願うB「住民の要望と熱意」が特に強かったことも重要な要因です。地域住民の生活向上を願い私財を投じる総庄屋、その熱意に賛同し骨身を惜しまず協力した住民たちの存在を忘れてはなりません。
 

 
緑川流域の石橋の中から、いくつか紹介致します!
 

霊台橋(れいたいきょう 美里町)

 霊台橋とは、緑川をまたぐ 日本最大の単一アーチ橋です。弘化4年(1847)、時の惣庄屋「篠原善兵衛」の要請で、石工「卯助」(通潤橋の橋本勘五郎の兄)と大工「伴七」が、清水地区と対岸船津地区の間に架けたもので、国の重要文化財に指定されています。国道218号線沿いの、わかりやすい場所にあり、すぐ上流に緑川ダムもあり、新旧の対照も面白い。
 それは霊台橋との初めての出会いの時でした。橋の上から下方を眺めたとき、思わず「すごい」と声を挙げてしまいました。霊台橋を見上げたとき、積み上げられた石に驚くばかり。近代的な機械や技術もない時代、ひとつひとつが手作り。素晴らしい石橋を作り上げていった石工たちの技術と熱意に感動!貴重な文化財である石橋をいつまでも大切に残していかなければと思いました。
 

通潤橋(つうじゅんきょう 山都町)

 黒船がやって来た時代(安政元年)1854年に、石工「宇市、丈八(橋本勘五朗)、甚平の3兄弟」が、種山石工の技術を結集して造ったものです。
 日本最大の水道橋であり、橋の長さ76メートル、高さ21メートル、中央部に水路掃除の為の放水口が左右にあり、放水時の3本の水のアーチとの対比がまた素晴らしい。
 水不足に悩む白糸台地に水を送るために、当時の矢部(現在の山都町)の惣庄屋(そうじょうや)布田保之助を中心に、地元民の総力を結集して完成させたこの水道橋は、アーチの水路28mで、中央には飲用とかんがい用の3本の水道が通っています。
 水道は一方の高いところに取水口を設け、平坦な橋を通り、その勢いで対岸の高いところに水を吹き上げる逆サイホンの原理を応用して、一昼夜で15,000トンの水を送り、100hrの水田を潤す能力を備えています。水圧や地震に充分耐える工夫を施した高度な技術力と均整のとれたその美しさも評価されるものです。豪快な放水は、水路にたまった土砂を流し出すためです。通潤橋物語というページもあります。
 
御船川目鑑橋(みふねがわめがねばし 御船町)

 緑川の支流、御船川に架かっていた全長60mの美しい二連式のアーチ橋でした。しかし、昭和63年5月3日の洪水で流失、今ではその姿を見ることはできません。復旧のめどもなく実に残念。いつの日にか復元されることを願っています。嘉永元年(1848)完成。豪商林田能寛らの寄金で、石工は卯助、宇市、丈八(勘五郎)の3兄弟。写真は太田幸生様撮影。
 御船川目鑑橋は、数ある熊本の石橋の中でも、最も美しい橋の1つでした。流失の原因も、設計上のミスでも、寿命が尽きたわけでもありません。流失は人災の可能性すらあります。その復旧・復元は、私たち現世代に与えられた使命かとも、御船川目鑑橋の復元を訴えるページも!
 

雄亀滝橋(おけだけばし 美里町石野

 緑川ダムの南側、国道から離れた山中に、訪れる人も少なく、ひっそりとたたずむこの橋は、欄干もなく、さほど大きくもない石橋(長さ15.5m)ですが、周囲の滝や水と緑が、この水路橋の姿を更に引き立てています。文政元年(1818)、岩永三五郎が最初に手がけた石橋で、緑川流域の石橋群の雄というべき存在です。

 この石橋は、当時の砥用郷(現在の美里町)の惣庄屋「三隅丈八」が手がけた新田開発のための用水路における最大の難所「当惑谷」に架けられたもの。用水路は11kmあり、完成までに6年の歳月を要しました。熊本で最古の水道橋で、対岸に送水して、75ヘクタールの水田を作りだし、架設後2世紀近く経た現在でも、田畑をうるおし続けています。橋本勘五郎がこの37年後に完成させた通潤橋のモデルとなったと言われています。
 
 以上、4つの石橋を紹介しましたが、この他にも、徳利(とっくり)と杯(さかずき)の飾りが石工の遊び心(?)を感じさせる下鶴橋(御船町)、田圃の真ん中に架かる大窪橋(美里町)、中国的な雰囲気をかもし出す門前川橋(御船町)や高々2m足らずの名もない橋まで。緑川流域だけでなく、菊池川流域、天草熊本市内など、熊本県内各地にアーチ石橋だけでも320基ほどが現存しています。(石匠館の上塚館長の調査によると、平成12年2月現在、流失・撤去されたものを含めれば550基以上が確認されています。)各地の様々な石造アーチ橋を紹介するページも作成しております。

1世紀以上の風雪に耐え、人々の暮らしに息づく
熊本の宝が「肥後の石橋」です。

<最後に>
 石橋は、橋本来の目的を果たしてきただけでなく、石橋を造った石工や農民たちの「汗」と「血」と「知恵」の結晶であり、「心」のぬくもりを伝えております。郷土の先駆者たちの記念碑でもあり、その土地になくてはならない風景ともなっています。この郷土の宝を後世に受け継ぐことが、今を生きる私たちの努めかと思っています。(平成8年5月 A.M.&E.H.記)

熊本国府高等学校パソコン同好会


本ページは「肥後の石橋」で最初に発信した記念すべきページです。
元々「石橋を訪ねて」とともに「熊本よかとこ」の中で
「肥後の石橋」を紹介するものでした。
最終更新:2006/02/13

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