熊本(肥後)の石橋の特徴

九州内の4県(熊本、長崎、鹿児島、沖縄)比較

熊本
長崎
鹿児島
沖縄
架設年代 1700年台末より
1800年台まで
1600年末 1800年代半ば 1400年代から
壁石の積み方 自然石の「乱れ積み」で、
質素
「平行布積み」で、
きれいに仕上げている
壁石を磨いたり、
幾何学模様を描く
 
径間(スパン) 長い 短い 中間 短い
拱矢比(注) 小さい 大きい 大きい 大きい
橋の長さ 短いものから長いものまで 比較的短い 長いものが多い 短い
石工 肥後の石工(熊本城築城
に従事した石工の子孫の
仁平グループと、藤原林
七を祖とする種山石工の
2系統と、他各地の石工)
不詳
ポルトガルや
中国の影響
(唐僧如定など)
肥後の石工
(岩永三五郎)
その影響を受けた
地元石工
不詳
中国の影響が強い
資金源 惣庄屋(農民)
商人
豪商(商人)
中国商人
島津藩 琉球王
「各県の石橋の全てが」ということではない!

 拱矢比(注)とは、径間(アーチの長さ)を拱矢(アーチの高さ)で割った値。例えば、径間が3mで拱矢が2mなら、拱矢比は1.5。拱矢比が小さい(股が閉じているアーチが半円形に近い)、大きい(股が開いている扁平なアーチ)であり、山間部の渓谷に架かる橋は拱矢比は小さく、平坦部では大きくなる。熊本の石橋の大半は、ほぼ半円のアーチで、拱矢比は2に近い。

 中国の石橋の歴史は紀元6世紀頃に始まり、ヨーロッパ型と比較して、アーチ石を縦(渡る方向)に並べる(リブアーチという)のが多く、中国型の特徴ともなっている。(中国にもリブアーチでないものもある)

 架設年代からも解るように、沖縄の石橋は琉球王朝時代の中国との交流から中国型であり、長崎はポルトガルの影響が強い欧州型とも中国型ともいわれており、熊本は、「肥後の石工」たちによる日本の伝統的な特殊工法を加味した熊本型(日本型)といってもいいだろう。鹿児島はほとんどが肥後の石工とその影響によるものではあるが、豪華で大きな造りが特徴となっている。

 

 熊本の石橋は、他県の石橋と比べ「質素に造られている」のが特徴の1つ。熊本では、藩などの公的な資金援助がほとんどなく、惣庄屋や商人たちが発起して金策に駆けまわり、地元民の労力奉仕で架けられた、住民による住民のための石橋。惣庄屋はやむなく山林の木を売り、借金で石工の費用を賄っている。そのような事情を知った石工たちも、最小の費用で架けようといろいろ工夫をこらす。肝心のアーチを疎かにすれば橋が弱くなる。そのためアーチには金をかけ、付属部分を我慢して資金節約に努めている。(「手抜き工事」ではない!)
 壁石は、そこらの石を拾って積み上げる自然石の「乱れ積み」をしている場合が多い。壁は崩れても、拾い集めていつでも補修できるからである。見栄えも気にせず、見た目にきれいな「布積み」ではない。手すりや欄干さえも省かれているものも多い。(専門用語については石橋用語を)
 しかし、自然石を利用するということは、石の形状が不規則な石を積み上げなければならない。普通の方法では崩れやすくなり、石工は更なる工夫と技術が必要となり、石工たちの技術が更に向上することにもつながった。「肥後の石工」たちの活躍の背景には、こんな事情や事実があったからとも思える。
 経済力や威厳を誇示するためでなく、住民生活に必要な実用本位なのが熊本の石橋である!「丈夫さと実用性に重点をおき、無駄や飾りを省き、アーチ曲線の幾何学美に加え、素朴で力強い美しさを感じさせてくれる」のが、肥後の石橋である

 
<追記>
 鹿児島市内の甲突川に架かっていた5つの大きな石橋が、河川改修の名のもとに次々と消えていったのは実に寂しいものでした。薩摩藩の権威を示す立派な石橋であったことも重要ですが、「肥後の石工」たちが命を懸けて(不確かな伝承ですが、薩摩藩の要請で架設工事を担当した肥後の石工「岩永三五郎」は完成後、秘密保持のため殺されようとしたとも?)完成させた石橋でした。三五郎は、熊本では資金不足のために、重要なアーチ部以外は最小の費用で賄っていたのだが、鹿児島では思う存分の仕事ができたのではないでしょうか。甲突川の橋は三五郎の集大成の石橋だといってもいいものです。
 今、1世紀以上も、地域住民と関わってきた石橋が、現代の車社会となじまないという理由で消えつつあります。戦後次々と造られていった大きな防災ダムの寿命は100年もないということですが、石橋はそれ以上の年月を生き続けています。石橋は、当時の石工、惣庄屋、農民たちの汗と血と知恵の結晶であり、今でも住民の心に生き続けている歴史的文化財でもあります。
 石橋とその文化を、後世にへ受け継いでいきたいものです。

<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会


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