文学の中の「肥後の石橋」

 「肥後の石橋」関連の文学と言えば、肥後の石工岩永三五郎」を描いた、今西祐行(いまにしすけゆき)さんの小説「肥後の石工」が有名です。肥後の石工の存在や石造眼鏡橋を全国に紹介した功績は大きいのではないでしょうか。これを読んで、石橋へ興味を抱かれた方も多いのではないでしょうか。あくまでも小説(フィクション)、石橋の秘密とか永送りなど史実とは異なる部分があることを留意しさえすれば、たいへん読みやすく、面白い内容で、一読の価値があると思っています。講談社文庫や岩波少年文庫にあります。

 小説「肥後の石工」以外にも、肥後の石橋が現われた文学作品がないのか調べてみました。以下、気付いたものだけですが、いくつかを紹介させていただきます。


 
 高群逸枝たかむれいつえさん(1894~1964)の「釈迦院しゃかいん川」という随筆の最後の辺りに、美里みさとの「鶴木野橋」の崩壊ほうかいの様子が記されています。
 
釈迦院川

  み寺の鐘の声
  さびしく野べにひびくとき
  日はかの山に沈むなり
  われいま山にたち
  東のかたをみてあれば
  のぼるや月のしずしずと
 この稚拙ちせつな歌をつくったのはいつごろであったかたしかには記憶しないが、あるいは大正5年ごろのことかとおもう。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(途中省略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

鶴木野橋の跡を訪ねる日本の石橋を守る会 釈迦院川は、この山に源をもつ。それは坂本あたりでは、またいで超えるほどの細流だが、諸渓をあつめて急に大きくなり、払川はらいがわではすでに完全に川の形ができあがっており、岸に沿った欄干をもった家々などをみると、小水郷のおもむきさえみせている。学校の前あたりではかえって小さくなるが、椿を過ぎて、中村で白石野からくる川をあわせて迂回するあたりになると、川は吼え立ち、四壁にこだまして流れ下り、石原、和田、岩尾、小岩尾をへて、鶴木野から佐俣をよぎり、二俣で砥用ともちからきた川をあわせる頃には、どことなく大川のおもむきをみせ、そのまま甲佐に出て緑川に入る。
 払川と佐俣をむすぶこの道はこの川に沿っていたので、私は一年ばかり、この川沿いの道を佐俣校に通った。 時には中村から峠越えをして鶴木野を通る道も利用したが、どちらにしても、この川にかかった眼鏡橋を渡らねば佐俣には行けなかった。
 大正5年(1916)6月26日のことだった。70年来といわれる山水が出て、釈迦院川は大洪水となった。私は佐俣から鶴木野へと眼鏡橋を渡ったが、まもなく大音響とともに橋がおちた恐ろしさをいまも思い出す。
 あのきれいな長い眼鏡橋はその瞬間に、そして永遠に消えうせ、いまはコンクリートの橋になっているとか。

(以上、昭和34年講談社発行「今昔の歌」より抜粋)

 熊本が生んだ偉大な女性史研究家、詩人、文学者である高群逸枝さんが肥後の石橋の崩落の現場に居合わせたという偶然、その瞬間をここに書き残しています。本校図書館司書の湯通堂先生にお尋ねしていたところ、以前県立図書館にお勤めされていた西田先生が調べて下さったということでした。眼鏡橋を渡った瞬間の「大音響とともに橋がおちた恐ろしさ」、「あのきれいな長い眼鏡橋はその瞬間に、そして永遠に消えうせ」。その瞬間から、90年が過ぎようとしています。右上の写真は、2005年5月の日本の石橋を守る会総会の後、鶴木野橋があった場所(現在の美里町)を訪れた石橋を守る会会員の皆さん。

 

 
 明治書院の「高等学校国語2」という教科書に「通潤橋つうじゅんきょう」が取上げられていました。出典は、建築学者である上田 篤うえだあつしさん(1930~)の「橋と日本人」という作品です。
 
通潤橋  ―― 橋と日本人 ――

通潤橋の放水風景 九州には十数回訪れている。
 その九州に見るべきものは多いが、それら数ある自然や人工の中で、わたしは、熊本の山深い里に架かる通潤橋の雄姿に、最も心ひかれる。これこそ九州の優れた文化、見ようによっては九州第一の「観光資源」のように、わたしには見える。
 その理由は、今からおよそ130年前、1854(安政元)年に矢部郷やべごう惣庄屋そうじょうや布田保之助ふたやすのすけの指揮の下、造られたこの石造アーチの水道橋が、20世紀の現代もごうも揺らぐことなく、まるで昨日造られたように若々しく、正確に機能できるからだ。近代以前の日本の「技術」が完璧なまでに現代に適応している、これは珍しい例である。それにこれはだれが見ても日本的な形の石橋だ。それはアーチの壁を両面から支えている擁壁の曲線のせいであろう。
 熊本の山々は、その昔「火の国」といわれたように、火の木(ひのき)が美しい。熊本市から高千穂へ抜ける日向ひゅうが街道は、この檜をはじめ、杉や松の美林が並んでいて、誠に絵のように見事である。通潤橋は、そんな風景の中に、突如として現れる。
 通潤橋を語るときには、どうしても、肥後の石工いしくたちのことについて触れねばならない。なにしろ彼らは、江戸時代末から明治にかけて、熊本県下におよそ400の石造アーチきょうを架け、そのうち270を現存せしめているのだ。それはまさに、江戸初期における長崎の石工たちの業績に匹敵する。
 肥後の石工たちも、もとは、長崎の石工から、アーチ橋の架け方を習ったようだ。熊本で幻の石工と言われた上島うえじま仁平にへいは1780年ごろ、菊鹿きくか洞宮とうぐう橋を架けたが、その橋は珍しいリブアーチ橋で、肥前長崎からその技術を得たと言い、また種山の石工の祖と目される藤原ふじわら林七は1804年ごろに、東陽村鍛冶屋かじや橋を架けたが、彼はもと長崎奉行所に勤めていた武士であったと言う。
 しかし、熊本の石橋は、長崎の石橋と違って、農村部に架けられたものが多い。それは、人間より、水を渡す水道橋の必要性から生じたものである。我が国で初めての水道橋である早鐘眼鏡はやがねめがねばし橋(1674年、大牟田市)もそうであるが、肥後の名工岩永三五郎の最初の橋とされる雄亀滝おけだけ橋(1814年、砥用ともち町)も水道橋だった。したがって、熊本の眼鏡橋は、多くは橋面が一直線に水平なのがその特色である。
 この通潤橋も、三五郎のおいに当たる種山の丈八の作とされるが、清流に清流を渡すその水平線は、肥後の美林の垂直の線をなで切るように見事である。
 ところで、水道橋を架けるほうが、歩道橋を架けるよりも何倍も難しい。水は高きより低きに流れるが、その勾配こうばいがちょっとでも狂えばもう水は流れない。また橋が不同沈下でも起こせば、水道管は破裂するだろう。それに水流がもたらす絶えざる振動が、壁石を微妙に痛めつけるおそれがある。
通潤橋の水路 その上で、通潤橋は、橋の高さと渓谷の深さの関係から、その水道管を逆サイホン型のU字管とする必要があった。つまり、一方のがけの中腹から通潤橋に落ち込んだ水は、また他方のがけの中腹まで駆け上がらなければならないのだ。がけの中腹と通潤橋との落差約7メートル。そしてその水圧に耐えられる水道管として、最初厚い板を用いたが、一遍に噴き破られたため、やむを得ず石が採用された。すなわち石の中をくりぬいて導管とする石樋いしどいである。その石の縫い目に初め鉄が鋳込まれたが、漏水が激しいので漆喰しっくいに変えられた。それでもうまくゆかず「八斗漆喰」なるものを用いてやっと安定した。八斗漆喰とは、この地方の土蔵に使われる強度の高い漆喰で、石灰、粘土のほかに、塩、松脂まつやに、松若葉などを加えたものである。
 このようにして逆サイホンの石樋は造られたが、高さ約20メートル、長さ約75メートル、アーチの直径約28メートルという大石造架構体を、洪水や通水による振動によっても微動だにしないように保つ工夫がなお必要である。そこで、熊本城に用いられている「さや石垣」の手法をまねて、橋の両端の下部に大きく湾曲した石垣を補強した。橋の本体を踏ん張るように支えている石積みの壁がそれである。これによりアーチはしっかりと安定した。
 一方、この逆サイホン式の水道管にも問題があった。それは水中に含まれる土砂が導水管の中でたまって、やがて管を詰まらせることだ。そこで橋の中央部を低くし、そこの導水管に穴を開け、平常は松の栓を打ち込んでくさび締めにし、田に水を送る必要がなくなった秋に、栓を開けて土砂を水流で噴き飛ばすことを考えた。その結果は大成功だった。アーチ橋の中央部から泥水が一斉に噴き出してくるそのさまは、まるで奇術を見るようである。その水流は滝のようにすさまじい。「秋水あきみず落とし」といって、この辺りの名物になった。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(以下省略)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 

 本校では使ってはなかったようですが、高校の国語の教科書に通潤橋が取上げてあったとは嬉しい事です。もっと早く気付いていれば、実際の教科書と対面できたのに・・・・!(今回は教科書会社からコピーを送っていただきました。ありがとうございました。)著者の上田篤さんは元大阪大学工学部教授、建築・橋の専門家という。教科書のねらいは、通潤橋が創られた観点、また創られるまでの人々の苦労などをいかに表現してあるか、表現の仕方を学ばせることのようです。報告文、紀行文として表現の教材として使われ、レポートの書き方の手本となっているとのことでした。なお「橋と日本人」は岩波新書にあるそうです。



 
霊台橋と大窪橋 流行作家内田康夫さんのミステリー小説に、浅見光彦シリーズの「黄金の石橋」というのがあります。文春文庫にもあります。
 主人公の探偵浅見光彦さんが「金の石橋」の在処を示す古文書こもんじょにまつわる殺人事件のなぞを解き明かすため、鹿児島から熊本にかけて点在する石橋を取材しながら旅を続けるという内容です。
 テレビ熊本(フジテレビ系列)の「金曜エンタティメント」として、2002年4月に放映されたそうです。鹿児島市の石橋記念公園、八代市東陽町の石匠館、下益城郡美里町の霊台橋(右写真)、大窪橋(右写真マウスオンの写真) 、馬門橋、二俣橋などでロケが行われたとのことです。
 殺人事件と石橋を結びつけて欲しくはないというのも正直な気持ちですが、肥後の石橋を多くの人々に知っていただいたのではないかと思います。内田さん、続編も書いていただけませんか。熊本県内に数多く残るめがね橋は1世紀以上の風雪に耐え、人々の暮らしに息づく歴史的記念碑でもあり、今では地域に無くてはならない風景となっています。美しい自然や人情、小説の材料には事欠かないものと思っています。いかがでしょう、もう一度熊本に取材にいらっしゃいませんか、美しく力強いアーチと緑の大地や清流が歓迎してくれるはずです。


 他にも、詩や短歌や俳句などもあるかと思います。今後も、見つけ次第、追加して参ります。ご存知の方があれば、お知らせいただければ助かります。「肥後の石橋」を様々な角度から紹介できればと考えています。(最終更新:2006/08/20)

文責:熊本国府高等学校パソコン同好会


肥後の石橋へ 墨絵で目鑑橋 前のページへ