桁(けた)橋からアーチ橋へ

「小さな石を組み合わせて、より大きな石橋を!」 アーチ誕生の過程を考えてみました。

石桁橋の場合、スパンは3.5mが限界? 石桁橋
 2つの鉛直の支持台の上に石桁を置くだけ。しかし、スパン(径間)が長くなれば、石桁等の重さとそれを支える支持台の力により、たわみを生じ、石桁の中央部に裂け目(左図中央の赤い部分)ができ、割れてしまう。桁橋では長大なものは不可能で、石桁橋の場合、スパンは3.5mが限界とも。桁が大きくなれば、石も重くなり工事も難しくなる。(理論的には10mを超えることも可能のようだが、大きな石材に恵まれるかが問題)
小さなレンガでも大きなスパンをと,擬似アーチの出現 疑似アーチの出現
 そこで、小さな石(レンガでも)を組み合わせるアイデアが生まれる。左図のように石を積み上げていく工法である。迫り出した石の重心を下の石上に置いていく。そのまま積み重ねていくと、重心は最初の石の外にはみ出すことになるが、それぞれの石の上にも積み重ねることにより、その重さでバランスをとる。これは力学的にはアーチではない。(別名:持送りアーチ corbelled arch)肥後の石橋の例では、宇城市の市木橋がある。
様々なアイデアが生まれ,片持ち式アーチが  左図のように、迫り出した石の前面を斜めに切り取れば、迫り出した部分の重量が減少し、構造力学的にも好都合。
 片持ち式「アーチ」技術は紀元前7世紀のアッシリア人によって水道橋をはじめ各地のドーム等に応用されている。迫り持ち式とも言う。
 この擬似アーチから真のアーチが出現したとは、出現年代を調べると必ずしも正しいとは言えないが、擬似アーチを経て真のアーチが出現したと考えるのも自然かとも。
合掌式アーチの登場 アーチの出現
 疑似アーチは、鉛直方向の荷重を鉛直方向にしか支えず、原理的には桁橋と変わらず、アーチとは言えない。鉛直方向の荷重を斜め方向に変えるのが、真のアーチである。左図は、2枚の石板が互いに支え合っているだけだが、力学的にも立派なアーチ(voussoir arch)である。合掌(がっしょう)式アーチとも言う。肥後の石橋では、天草郡五和町の「馬場の石橋」や人吉の「井口八幡宮石橋」がこの例。
いよいよアーチの登場  アーチにすれば、小さい石を組み合わせて、大きなスパンの橋を架けることが可能に。しかし、真のアーチを造るには、くさび形の石を用い、一つ一つの石をくさび形に裁断する技術(切石術)や高度な積石術が必要となる。左図は、2枚の石板の間に要石を置いたアーチ。アーチ橋は紀元前2000年の古代エジプト時代には造られている。(紀元前4000年メソポタミヤに石造アーチ橋が存在したとも)この例は、菊池郡大津町の陣内橋(仮称)等がある。
アーチの原理を使えば、輪石を増やすだけで、より大きな橋が  アーチの作用がどのようなものかを知るには、個々の石がそれ自身の重さによって、互いに他の石に力を及ぼしあっている様子を思い浮かべることだ。要石は両隣の輪石に向かって、両隣の輪石は自身の重さを加えて更にまたその隣へと、次々と放射状に少しずつ方向を変えながら、両端の橋台の方向へ伝えていく。
 アーチの原理を使えば、輪石を増やすことによって、小さい石で、より大きな架橋が可能となる。
 世界の様々な地域でアーチが出現しており、すべてのアーチがこのような過程を経て誕生したとは限りません。あくまでも一例だとお考え下さい。擬似アーチについては模型を作成し確認しましたが、構造力学等の専門的な知識もありませんので、上記の図には力学的に不自然な部分もあるかとも思います。お気づきの点など、ご指導いただければ幸いです。アーチの強さを知る「簡単な実験」も別ページに紹介しています。
 メソポタミアでは日干しレンガの製造技術が発達していたので、古くからアーチ工法が存在していたのではないかと推測されていますが、紀元前3500年頃までは確認されてはいません。紀元前2200年頃、ユーフラテス川に幅9m、スパン200mのレンガアーチ橋が架かっていたという話も伝えられていますが、これはスパンではなく橋長の誤りでしょう。現在の技術では、スパン200mも可能なようですが、当時の技術では考えられない長さです。ちなみに「ユーフラテス川」とは「立派な橋が架かった川」の意味(これは後述の「橋の歴史」や雄山閣出版の「橋の文化誌」にあったのですが、地理の先生によると「水量が豊かでゆっくり流れる川」で、チグリス川が「速く流れる川」の意味とも)があるとのこと。(なお、前述の「橋の文化誌」には、メソポタミアでは紀元前4000年ころに、石造アーチが架かっていたとの記述も)
 アーチ構造が確実に確認できるのは、アッシリア全盛時代(紀元前9~7世紀)の浮彫絵画に城門アーチの絵があります。このアーチ技術がエトルリア人によってローマ帝国に伝えられ、ローマ帝国の拡大とともにヨーロッパ各地に石造アーチ橋が次々と架けられます。紀元前312年のアッピア水道橋に始まり、ガール水道橋(紀元前14年)、クラウディウス水道橋(紀元52年)、セコビア水道橋(紀元1世紀)など、数多くの石造アーチ橋が2000年以上を経た現在までその姿を残しています。(以上、山本宏著「橋の歴史」森北出版を参考に)
 更には 「約4千年前のギザのピラミッド群のなかで発見された石造のアーチ式天井が人類最古のものと考えられています」と,鹿島出版会発行の「建築にはたらく力のしくみ(建築学教育研究会編)」にあります。
トルコのベルガモンの遺跡に残るアーチ イスタンブールのヴァレンス水道橋
 左上の写真は、トルコのベルガモン(ベルガマ)の遺跡に残るアーチです。
 右上の写真も、トルコのイスタンブール市内に残るローマ帝国時代のヴァレンス水道橋(最初ローマ皇帝ハドリアヌスが紀元2世紀に架けたが、ローマ皇帝ヴァレンスにより架けなおされ紀元375年に完成)、現在でも900mほどが残っており、その下を自動車が走っています。ただ、現在の姿は当時のままではなく、東ローマ帝国皇帝ヘラクリウス(在位610-641)が破壊、その後完全に復旧したのはオスマン帝国の国王スレイマン(在位1520-1566)。
 ローマにアーチ技術を伝えたというエトルリア人達のふるさとはリディア(現在のトルコ、諸説も)で、イタリア半島に移住したのは紀元前800年頃。伝説を除くと、ローマ最初の王もエトルリア人(タルクィニウス朝を開いたルーキウス・タルクィニウス)で、紀元前616年。エトルリア人によるローマ支配は共和制移行の紀元前509年までの100年ほどですが、その後もエトルリア人達のふるさとにアーチが造られ続け、21世紀の今なお残っているというのも興味深いことです。なお、ローマが水道橋をはじめとする大建造物を次々とつくり得たのは、コンクリートの発明が大きく貢献しています.。コンクリートにより、形も大きさも思うように自由につくれるようになり、しかも短い工期で、安価に大建造物をつくることが可能に.。
最終更新:2009/12/31

<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会


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