伝えよう、次世代へ

私たちには、たくさんの伝説や民謡が伝えられてきました。
私たちは、その伝えられたものを次の世代へ語り継がなければなりません。
そのために、ここでいくつかの伝説や民謡を紹介したいと思います。
このすばらしいものを永遠に残しておくために、これを見てたくさんの人に伝えてあげてください。
そして興味をもった方は、ぜひ調べてみてください。
このほかにも、ここで紹介しきれないくらいたくさんあります。


肥後の民話・伝説

熊本にも、様々な民話や伝説が語り継がれています。
その中からいくつかを紹介したいと思います。
民話や伝説は、それぞれ地域や話す
人によって少しずつ違っていると
思いますので、あくまでも
参考にしてください。

根子(ねこ)岳の猫(ねこ)伝説

 阿蘇の宮地に(現在の一宮町宮地)に住む男が、南阿蘇の高森(現在の高森町)まで行くことになりました。宮地から高森へ行くには、日ノ尾峠を越えるのが近道で、その道を急ぐことにしました。しかし、どういうことか山道を迷ってしまい、だんだん日も暮れてきてしまいました。

 仕方なく、辺りで野宿でもしようと場所を捜すことにしました。ところが森の中に家の灯りが見えるではありませんか。近寄ってみると大きなお屋敷でした。「こんな山の中に家が?」と不思議には思ったものの、「野宿するよりは」と、宿をお願いすることにしました。

 屋敷の中からはこの辺りでは見たこともないような美しい女性が現れました。「旅のものですが、道に迷ってしまいました。一宿を願いたい。」と申し入れたところ、親切に奥座敷に案内され、「風呂がいいか、食事が先か」と言うので、道に迷い歩き疲れた後なので、風呂を先にすることにしました。

 風呂場に案内され、入ろうとしているところに、別の女性の声がしました。
「おじさん、おじさん。この風呂には入らない方がいいよ。この屋敷からは早く逃げた方がいいよ。」
「ええっ、何でだ?」
「ここは猫屋敷です。旅人を猫に変えるのです。ここのお湯に浸かると、湯に触れた部分に猫の毛が生えてきます。ここの食事をとれば、身体も猫に変身するのです。だから早く逃げてください。
「しかし、あなたは、何故、私を助けてくれるのですか?」
「私は、おじさんの隣の家に飼われていた猫の三毛です。おじさんにはいつも可愛がってもらっていましたので、そのお礼です。」
 男は半信半疑ではあったものの、その真剣さに負けて逃げることにしました。庭に逃げ出ると、先ほどの女が湯桶を持って追いかけてきました。

「待てー!お前も猫になれ!」と言いながら、お湯を振りかけようと追いかけてきます。
 男は、うしろを振り返ることもせず、一目散に逃げ出しました。女のかけた湯が少し手の甲に付いたのも忘れ、一生懸命走り、無事に宮地の自宅に帰り着くことができたそうです。
 帰り着くや否やぐったりと倒れ込み、そのまま朝まで寝入ってしまいました。翌朝、目を覚まし、手の甲を見ると、ちょっとだけだが、湯がかかったところに猫の毛が生えているではないか。急いで隣の家に行き、三毛を尋ねると、三毛は夕べから見つからないということでした。

 男が迷い込んだ山道は、根子岳北側登山口の谷間でした。今では、その地名を「ヤカタガウド」と言い、猫屋敷の話を伝えています。現在は「根子岳」と書きますが、昔は「猫岳」と書いたそうです。新月の夜は阿蘇中の猫がそこに集まるという言い伝えもあります。


飯田山(いいださん)

 その昔、飯田山(いいださん)が金峰山(きんぽうざん)に背比べを申し込んだところ、金峰山は「オレに勝つはずがないだろうが」と軽くあしらいました。そこでムッときた飯田山は「いや、自分の方が絶対に高い!」と言い張り、結局互いの頂上に樋(とい)をかけて水を流しどちらが高いのか比べてみようということになりました。

 そこで、山頂間に樋を渡し、水を流してみると、高さ自慢を言い出した飯田山の方へ流れてしまい、すっかり恥をかいた飯田山は「もう言いださん」と言ったとか。このことから、いつの間にか「飯田山(いいださん)」と呼ばれるようになったそうです。また、飯田山の頂上付近にある池はこの時の樋の水がたまってできたものといわれています。

飯田山 金峰山 甲佐岳

(注:上益城郡甲佐町などでは、飯田山の背比べの相手を甲佐岳(こうさだけ)という話も残っています。この場合、「言い出さん」と言ったものの、背比べに負けた飯田山は悔しく、甲佐岳に殴りかかったのです。突然の暴力にかなわなかった甲佐岳は「降参、降参!」と言い、その言葉「こうさん」が甲佐岳の山名の由来となったそうです。甲佐岳の山頂付近の絶壁が、その殴られた跡とのこと。甲佐岳は城南町方面から眺めると絶壁の姿が格好良く、「肥後マッターホーン」と呼ぶ人さえいます。)


姫浦

 景行(けいこう)天皇の九州巡幸(じゅんこう)の折、船で八代海を南下された時、暴風(ぼうふう)となって船が今にも沈みそうになりました。天皇にお伴していた姫は、これは海神の怒りのためだと思い、「我が身はこの荒海に呑まれようとも帝(みかど)の命を助け給(たま)え」と、白い衣装に身を包んで荒海の中に飛び込みました。すると今までの嵐がうそのように静まり、波もおだやかになりました。

 やがて神浜の岸辺に一つの石が打ち上げられました。人々は「姫が姿を変えて帝のあとを慕って流れついたに違いない」と、その石を祀って姫の霊を慰(なぐさ)めました。これが姫石神社です。


明神池の河童伝説

帰ってきて〜。あなたぁ〜。  阿蘇の白水村には、白川水源などたくさんの泉があり、「水の生まれる里」の別名があります。その泉の一つに明神池というのがあります。
 昔々、この池には、仲のいい男と女の河童(かっぱ)が住んでいたそうな。ところが、この男の河童ときたら、いたずら好きで、村人に迷惑ばかりかけていたそうで、とうとう明神池の神様の怒りに触れ、池を追放されてしまったそうな。
 後に残された女の河童は悲しみに暮れ、それからずっと池の中程にある石の上で男の河童が帰ってくるのを待ちつづけたそうな。しかし男の河童はとうとう帰ってはこれなかったそうな。
 今でもその石が池の中程に残っております。平成9年、その石の上に女の河童の銅像が建てられました。この写真の絵は案内板の一部です。

熊本の民謡・歌

熊本の歌の代表的なものを紹介したいと思います。
一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
ここでは、3つしか紹介していませんが
他にもまだまだ沢山あります。
更に興味を抱かれたら
調べて下さい。

おてもやん

おてもやん あんたこの頃嫁人りしたではないかいな
嫁人りしたこたしたぱってん
ご亭どんがぐしゃっぺだるけん まあだ盃ゃせんだった
村役(むらやく)鳶役(とびやく)肝(きも)入りどん
あん人達のおらすけんで あとはどうなっときゃあなろたい
川端町(かわばたまち)つぁんきゃあめぐろい
春日ほうぶらどんたちゃ 尻ひっぴゃーで 花ざかり花ざかり
ピーチクパーチクひばりの子げんばくなすびのいがいがどん
一つ山超え も一つ山超え あの山超えて
私ぁあんたに 惚れとるばい
惚れとるばってん 言はれんたい
おいおい彼岸も 近まれば
若者衆(わきゃもんしゅう)も 寄らすけん
熊本(くまんどん)の 夜聴聞詣(よじゃもんみゃ)りに
ゆるゆる話も きやあしうたい
男振りには惚れんばな 煙草入の
銀金具がそれがそもそも 因縁たい
あかちゃか べっちゃか ちゃかちゃちゃ
おてもやん難解語解説

おてもやん・・・肥後女性の通称
ばってん・・・けれども
御亭どん・・・ご亭主、主人
ぐじゃっぺ・・・痘瘡を病んだ後のあばた顔
村役・・・村の世話をする役人
とびやく・・・鳶役、消防団員もしくはその頭
肝入り・・・世話役
きゃあ・・・意味を強める接頭語
げんぱくなすび・・・玄白茄子、杉田玄白が広めた茄子
いがいがどん・・・トゲ、栗のイガ。どんは「殿」かひとにつく接尾語、イガを擬人化して使用
夜聴聞詣・・・お寺のお説教を夜詣ってきくこと
因縁・・・インド伝来のなめし皮の意味の「印伝」が転じたもの
あかちゃか・・・あかんべー、あかちゃかべーろ。
踊ってま〜す。
 数ある熊本民謡の中でも、全国的にもよく知られた歌で、陽気なリズムとユーモアにあふれる歌詞で知られています。歌ができたのは幕末頃といわれ、当時は「熊本甚句」といって花柳界のお座敷歌として歌われていたとか。
 一説によると、三味線と踊りの師匠・永田イネのもとに稽古に通っていた女性をモデルとし、彼女の結婚に際して永田イネがつくったものといわれています。
 また一方では、幕末の肥後勤王党が孝明天皇に捧げた「しのび歌」ではないかとの説もありますが、真偽のほどは定かではないそうです。

あんたがたどこさ

あんたがたどこさ 肥後さ
 肥後どこさ 熊本さ
 熊本どこさ 船場さ
 船場山には 狸がおってさ
 それを猟師が 鉄砲でうってさ
 煮てさ 食ってさ うまさでさっさ
あんたがたどこさ 肥後さ
 肥後どこさ 熊本さ
 熊本どこさ 船場さ
 船場川には エビさがおってさ
 それを猟師が 網さでとってさ
 煮てさ 食ってさ うまさでさっさ

 日本中で歌われていたおなじみの手まり歌。歌に歌い込まれた船場一帯は老舗が軒を並べる城下町の風情を残した街並みが続いています。坪井川にかかる船場橋の欄干には、この手まり歌にちなんだタヌキとエビの像が飾られ、ユーモラスな姿を川面に映しています。しかし、この歌詞(特に「・・・さ」という言葉)を考えると、熊本の歌とは、どうしても思えないのですが。みなさんはどう思われますか。


五木の子守り唄

おどま盆ぎり盆ぎり
盆から先きゃおらんと
盆が早よ来りゃ 早よもどる

おどまくゎんじんくゎんじん
あん人たちゃ良か衆
良か衆良か帯 良か着物
私(の子守り奉公)はお盆まで、お盆まで
お盆の後は居ませんよ(実家に帰るんですよ
お盆が早くくるなら、早く(家に)帰れる

私の家は貧しい(くゎんじん:物乞いのこと)
あの人たちは良い人たち(お金持ち)
(お盆には)良い人(お金持ち)たちは美しい帯や着物を着るだろうな。
(お盆に家に帰ったとき、自分も着れたらいいのに・・・)
 わずかな耕作地しかなく、細々と生計をたてていた山の人々は、家族の食いぶちを減らすために娘が7、8歳になると町の裕福な家に子守りや女中奉公に出していました。
 娘たちは家を離れ、両肩にかかる背中の子の重さや、他人の飯を食べる辛さに耐えなければなりませんでした。このような中で生まれたこの子守歌は、我が身の不幸を訴え、子守りの辛さを唄っています。実際は「子守り娘の唄」がまとを獲た題名かも知れません。哀愁を帯びたメロディーと切ない思いが伝わる日本でも代表的な子守歌です。
 レコード等で全国的に有名になった「五木の子守唄」とは別に、五木村で古くから唄い次がれてきた「正調五木の子守唄」もあります。
正調五木の子守唄

 おどまいやいや 泣く子の守にや
 泣くと言われてにくまれる
 泣くと言われてにくまれる

 ねんねこした子の可愛さむぞさ
 おきて泣く子のつらにくさ
 おきて泣く子のつらにくさ

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