熊本文学散歩


漱石の犬(大江村401の仔犬)について

 熊本国府高等学校PC同好会 御中
 残暑お見舞い申し上げます。くまもと文学散歩、夏目漱石のページを興味深く拝見しました。
 さて、漱石と言えば猫ですが、犬とも暮らしていたようです。明治29年4月、四国松山から熊本の第五高等学校へ赴任した漱石は在任中に引越しを繰り返し、明治30年9月から大江村401に転居していますが、夏目鏡子夫人筆談「漱石の思い出」によると、

 『この間ふとそのころの古い写真(添付画像)をとりだしてみましたところ、夏目と私とが縁側に火鉢をもちだしてすわっていますと、夏目の左に(書生の)土屋さん、私の右に女中のテルというふうに縁に腰かけています。夏目の座布団をわけて小さい犬の仔はすわり、ただいまの話の(女中テルの姉の飼っていた三毛猫で鼠捕りが上手いという評判で夏目家に来ていたが、鼠以外に、夏目家の食材を持ち去るので厄介物になっていた)猫は女中の膝の上で、耳を三角にして抜け目のない顔をしております。』というように、猫には「随分、風当たりの強い表現」ですが、犬には「火鉢のそばの特等席で漱石の座布団を分ける程」好意的です。添付画像出典=平凡社「太陽」1994年8月夏目漱石特集号

 この後、引っ越して、明治31年3月から7月まで暮らした井川淵町の家では、鏡子夫人の自殺未遂があり、明治31年7月から内坪井町78(平成7年7月私も見学しました)に転居しますが、この頃も、夏目鏡子夫人筆談「漱石の思い出」によると、「よそからもらった大きな犬」と暮らしていて、物凄くよく吠えていたそうです。ある時、通行人に噛み付いてしまい、夜には巡査から厳重注意を受けたのですが、この犬を大いにかわいがっていた漱石曰く「犬なんてものはりこうなもので、怪しいとみるからこそ、吠えるのであって、家のものなどや人相のいいものには吠えるはずのものではない。噛みつかれたりするのは、よくよく人相の悪いものか、犬に特に敵意をはさんでいるもであって、犬ばかりを責めるわけにはいかない。」と反撃したそうです。しかし、その後、夜遅くに帰宅した漱石はこの犬に吠えられた挙句、噛み付かれて、袂と袴が破れ、真っ青な顔で家に入ってきたそうです。

 御照会ですが、大江村401で飼われていた「夏目の座布団をわけられていた小さい犬の仔」、耳が垂れたビーグル風の洋犬?について

  1. 犬種
     
  2. どのような経緯で飼われたのか
     
  3. 室内飼いだったのか
     
  4. 大江村401から井川淵町の家に越した際も、一緒だったのか
     
  5. 内坪井町78で「よそからもらった大きな犬」を飼い始めたのはいつ頃なのか
     
  6. その頃も、大江村401で飼われていた「夏目の座布団をわけられていた小さい犬の仔」は一緒だったのか

等について、地元での情報・資料はないでしょうか。

 我が家も、現在、シェルティと暮らしていますが、その存在が家族の間の緊張を和らげるような働きがあるのは間違いないように感じます。私の想像ですが、大江村401で「夏目の座布団をわけられていた小さい犬の仔」が井川淵町の家では飼えなかったとすると、そのことも、鏡子夫人自殺未遂事件に多少とも間接的にでも影響していたのではないかという気がしています。
 お手数ですが、御検討頂ければ幸いです。

 以上のようなメールを岡山の横山様よりいただきました。漱石の愛犬のこと、今までは考えたこともありませんでした。何らかの資料が残っていないのでしょうか。漱石が飼っていた犬に関する、どんな小さな情報でも構いません。ご存知の方、メールでも電話(096−366−1276)でも構いません。よろしくお願い致します。2007/08/30
<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会
 
 
 横山様より、新たな情報をいただきました。
 いくつかの情報を追加したいと思います。主として、荒正人氏「増補改定版 漱石研究年表」を参考にしています。
 「明治31年3月から7月」まで暮らした「井川淵八の家」は、「二階建てだが、間数が少なく」、引越しにあたり、「書生の俣野義郎氏・土屋忠治氏両名に退去」を勧めています。よって、照会事項ぁ大江村の家の仔犬も、誰かに引き渡した可能性が高いと思われます。
 鏡子夫人の自殺未遂が起こってから引っ越した「内坪井町78」は明治31年7月から暮らしていますが、照会事項ァ屬茲修らもらった大きな犬」は「たちまち明治31年7月に」飼い始めていました。「第五高等学校書記 余田司馬氏があるドイツ人からもらって飼っていましたが、吠えて持て余していたのを漱石が譲り受けました。その後も、よく吠えて「夏目の獅子狗犬」と云われたようですが、2年間飼い続けました。そして、明治33年6月、渡英の準備のため、この犬は神谷豊太郎氏に譲りました。確か、漱石の家は泥棒がよく入っていたので、用心棒としても重宝していたのではないかという気がします。
 大江村の家の仔犬の行方は依然として不明ですが、一緒に写っていた書生の土屋忠治氏が大江村の家の書生になったのは明治31年1月なので、あの写真は、それ以降、熊本で火鉢がいらなくなる頃、遅くとも3月までの3ヶ月間に撮影されたようです。(2007年10月13日)

 

 横山様からの新たな情報です。
 ご無沙汰しています。久々に『大江村401の仔犬』について追記させていただきます。

 大江村401の犬に関する情報は、内坪井町78の犬に比べると皆無に近く、鏡子夫人筆談「漱石の思い出」以外に言及された記録が見当たらず、本当に漱石が飼っていたのかという疑問もあります。鏡子夫人の回想でも、誰が飼っていた犬かには触れていません。もし、夏目家以外の飼い犬であったとすると、漱石の友人で五高の同僚でもある撮影者の山川信次郎氏が、唯一、夏目家の部外者となるため、山川氏が自分の飼い犬を、偶々、大江村の夏目家に連れて来ていた可能性が浮上します。

 この写真から得られる情報を引き出してみたいと思います。犬種は、複数のブリーダーさんの御意見を総合するとジャックラッセル系統の可能性が有力です。カメラ目線になっているところなど、落ち着いた性格が伺われます。土屋氏は待ちくたぶれたという表情です。後年、写真撮影で笑うのを嫌った漱石の表情はやや硬さが見られます。鏡子夫人は普通の表情です。一番緊張しているのはテルさんで、一番リラックスしているのは、そのテルさんが膝に抱いている三毛猫という対照も面白いと思います。

 一瞬をとらえた写真から、その過去と未来を考えるしかありませんが、縁側の下に無造作に置かれた下駄は、写真撮影が始めから意図されたものではないことを物語っています。恐らく漱石のものでしょう。時刻は、影が短いのでお昼前後という印象です。春も近く、ぽかぽか陽気になり、漱石、山川氏、土屋氏が庭で仔犬を相手に寛いでいる様子を、縁側に持ち出した火鉢にあたりながら、鏡子夫人が部屋から眺めていた情景が想像されます。山川氏の発案で、せっかくだから、写真を撮ろうということになり、漱石は縁石ではなく、地面に下駄を脱いで、勢いよく縁側に上がったようです。既に、テルさんが三毛猫を抱いて、縁石に足を置いて腰掛けていたのかもしれません。そのあと書生の土屋氏が仔犬を抱きかかえて漱石の元においたような動きが感じられます。

 さて、大江村401の仔犬に関する資料が新たに見つかりました。真下五一著「伝記小説 人間夏目漱石」(昭和52年発行 日刊工業新聞社)の210ページに以下の記載がありました。照会事項△砲弔い銅┷兇防戮狷睛討隼廚錣譴泙后

 前述のやっかいものになった三毛猫を土屋氏が連れ去って行く件から引用します。

その次の日曜日に、三毛猫をつかまえようと土屋が台所へ現れたちょうどその折、テルの姉がまた様子を尋ねに来訪している最中で、三毛猫はちゃんとそのテルの姉の膝の上で体を丸め目を細めているのであった。

それで鏡子は、まことに言いにくそうであったが、でも、この際何とかしてこの泥棒猫だけはお待ち帰り願わないと、と思って、

「あのー」と口を切りかけたその時であった。先程から二度ほど台所にも顔を出していた土屋が、三たび、
 「猫々、・・・三毛はどこさんか行った!」
と顔を出したが、今度は余りに見事にみつかったので、テルの姉に挨拶もなしに、いきなりその膝の上から三毛を奪うと、ふところに用意していた古沓下の中に頭を突っ込むなりサッと持ち去ってしまったのだった。

 そのために鏡子は、テルの姉に対して何ともバツの悪い思いをしたことであったが、今度こそは土屋も猫捨てに成功したらしく、この日以来、三毛はもう再び姿を現さなくなったのであった。

が、しかし、この三毛も一つだけ写真の上でその姿をとどめているのであって、それをわざわざ鏡子に思い出させたのは漱石であった。それは、ちょうどこの三毛が家につれられてきたころと時を同じうして俣野がどこからか貰ってきた仔犬と一緒に写っているもので、それがどういうわけか珍しく漱石の机の上に立てかけてあったからだった。それは多分、以来姿をみせなくなったこの三毛に対する一片の愛情からだったろうとも察せられる。

 その写真も俣野自身が撮ったもので、漱石と鏡子が縁側に並んで坐っていて、その両側にテルと上屋が脚を垂らして腰を掛け、漱石と土屋との間に仔犬の顔がのぞき、そしてテルの膝の上に三毛と、いずれも見事に目を丸めて正面を向いているものだったが、その三毛の耳は、はしこくピンと三角形に立てられているのだった。その得意の表情は、多分今もどこかの家で飼われつつ同じように続けられているであろう。それとも家を追われたまま野良猫と化してしまったものであろうか。
』以上引用

 この文章によると、1)大江村401の仔犬はテルの姉が飼っていた三毛猫が夏目家に来たと同じ頃に「俣野氏がどこからか貰ってきた」 2)仔犬と三毛猫が写り込んだ「写真は俣野氏自身が撮影した」ということになります。

 「伝記小説」の性格上、著者が脚色を施した箇所が存在することになりますが、会話文を含めてリアリティーを感じる文章です。残念ながら、前書きや後書き、あるいは注釈等がなく、どこまでが事実で、どこからが小説なのか、不明のため、検討の余地は残りますが、貴重な資料です。

 先ず、大江村401の仔犬が三毛猫と同じ頃、「俣野氏が貰って来た」という記載は大変興味深く、もしそうなら、間違いなく、「夏目家で飼われていた」ことになります。一方、この写真の撮影者は山川信次郎氏とされてきました。少なくとも、書生の俣野氏が写真機を所有していたとは考えにくく、撮影が書生の俣野氏というのは一見、矛盾します。しかし、遊びに来ていた山川氏の写真機を俣野氏が拝借して、指導を受けながら、撮影した可能性は残ります。そう言えば、土屋氏の表情や寛いだ姿勢は撮影者が教官の山川氏ではなく、書生仲間の俣野氏であった故と想像できないでもありません。もちろん、山川氏と俣野氏がこの写真に写っていない理由もはっきりします(2009年5月23日)

 真下五一氏は明治39年京都府丹後峰山町生まれ、日本文芸家協会会員、京都市文化団体懇話会初代会長、京都市文化功労者
最終更新:2009/05/25
 
 
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