熊本文学散歩


森鴎外の熊本滞在等に関する情報(その2)


 冨崎様から、以下のようなメールもいただきましたので、ここに紹介させていただきます。

 お世話をおかけします。あれから私もいろいろ調べてみて、分かりかけた事項が幾つかあり、お伝えしなければと思っていたところです。
 私は、森鴎外記念会の会員(評議員)になっておりますが、同じ会員(評議員)である中川浩一氏から次のような話を伺って大変興味深く思っているのです。ちなみに同氏は『舞姫』のヒロイン・エリスのモデルとされる実在の来日したドイツ女性について、その本名が、Elise Wiegert であることを突きとめたー横浜発行の英字紙The Japan Weekly Mail 記事を発掘したーひとなのです。専門は地理学。茨城大名誉教授です。
 以下中川氏から直接お聞きした話。
 同氏の祖父君(中川 元―ハジメー氏)は、文部省出身(森有礼文部大臣遭難の際、大臣秘書官だった。)で、第五高等学校の校長を務めた。漱石の留学手続きを進めたのはこの私だと生前自慢していた。(隠れたエピソードとして、ご紹介します。)

 さて、本題に移らせていただきます。
 漱石と鴎外が熊本で出逢ったという事実はもともとありません。お答えは、私が両文豪が熊本で<すれ違ったのでは?>、という疑問を持ち出して、調査をお願いしたいと申しあげたのを、<両人が出逢ったかどうか、調べて欲しい>という質問依頼だと即断され、真意を誤解なされている憾みがあるのです。
 当時(明治32年9月)漱石は無名、鴎外は小倉で不遇をかこつ毎日だったわけです。
 私としては内坪井(5番目の家・現在漱石記念館のあるところ)と坪井町(宗岳寺)との位置関係次第では、鴎外は漱石の家のすぐ傍まで来ていながら、気が付かずに帰ってしまったことになるのではないか。と素朴な疑問を提起したつもりだったのです。
 鴎外は『渋江抽斎』に・・・抽斎と鴎外が同時代人だったら、武鑑や江戸図蒐集といった共通の趣味を持つ<二人の袖は横町の溝板の上で摩れ合った筈である・・・>と書いています。お尋ねした気持ちの裏に『抽斎』のような話の展開になれば・・・面白いなあという一種期待があったのでお尋ねしたわけでした。
 ご指摘のとおり、漱石とは二度ばかり逢ったばかりと鴎外自身は書きました。しかし、これは事実に反します。
 正岡子規の根岸の家(子規庵)で開かれた句会に両人が出席(明治29年1月3日)したのが最初の出会いであるとされ、少なくとも4回、対面の機会があったというのが、通説だからです。あと、手紙のやり取り、献本の交換など、頻繁とはいいがたいが、結構両文豪の間にはほほえましい交流がありました。

注:<漱石とは、2度ばかり逢ったばかりと鴎外自身は書きました。しかしこれは事実に反します>。とコメントしたのは、ちょっときつ過ぎました。
<・・・逢ったばかり>の<ばかり>は、「2度位しか逢っていない」の意味ではなく、<「つい近頃、2度程逢ったばっかり」で・・・」(以前にも顔を逢わせたことはある。)>程度の表現だと解するほうが自然であろう、と思います。

 次に、当方のその後の調査で、分かりかけてきたことを申しあげます。
   ―ヽ抻(曹洞宗)
 現在坪井町には、該当するお寺はありません。あと国会図書館で、NTT電話帳ー熊本市に、宗岳寺の広告が大きく出ているのを見つけました。ただし、お寺の所在地は上通りとなっています。どうやら問題のお寺は、坪井町から、上通りに移転した(戦災復旧で?あるいは熊本大水害のあと?)もののようです。
 ゼンセン住宅地図によって推定してみたのですが、宗岳寺の明治32年当時の境内の位置は、現在コケイ塾、女子高校(短大?)のあるあたりではなかろうか、もしくは法務局周辺か、いずれにせよ、お城の直下にあったはず。ということになりました。この推定が間違っていないとなると、次の結論に繋がります。その場所は漱石の家(5番目)とは、目と鼻ではありませんか。 
 以上、肝心の周辺地図なしで書いているので、全体としてあやふやな点があります。ぜひ上通りのお寺に出向かれで、逐一お確かめになってください。
 ◆±石日記
 明治32年の漱石日記に関して、対応する日付そのものの記載を欠くとのご指摘。ありがとうございました。記載がないのは、残念ですが、「矛盾する変なことが書いてあるのなら、がっかりするだろう」。そう思っていたものですから、大変嬉しいです。 
  その他
 今年は、鴎外生誕140年。没後80年ということで、東京都文京区鴎外記念図書館主催、森鴎外記念会後援の記念行事が都内で開催され、盛会でした。
 国語教科書から漱石・鴎外が消えるという時代。寂しい思いがします。(2002/01/30)
 

 貴重な情報ありがとうございます。とともに、「すれ違ったのでは?」の件における、早合点をお許しください。
 宗岳寺に尋ねてみましたところ、場所は開山以来(400年以上)そのままだそうです。熊本城の表鬼門にあたり、城を護るために建立されたという由緒あるお寺さん(熊本城の鎮護寺)とのことです。西南の役において焼失するが再建されたとのこと。井沢蟠龍子の墓も残っているとのことです。

 宗岳寺の場所ですが、上林町3-45(熊本信愛女学院高校の南側)、上通りの北(正確には並木坂から西に入ったところ)です。坪井川の東方200m足らずの場所です。現在の地名は上林町ですが、昔は南坪井町だったそうです。何度か町名が変更されているようで、坪井町という時代もあったかも知れません。(熊本地名辞典によると、宗岳寺のある上林町の北半分を昔は「新坪井村」と)
 また、漱石の内坪井の家は、その坪井川の上流(北へ)約300mほどの西60m付近にあたります。漱石旧居の西隣が熊本中央女子高校です。直線距離にして、340m程でしょうか。(左地図を参照)

 来年からの新教育課程では、「国語の教科書から森鴎外や夏目漱石が消える」のは大変残念です。しかし、鴎外や漱石の足跡や作品は永遠に残ります。私自身も、読んだ作品数はさほどありません。少なくとも熊本に関連するものだけでも、読破したいものと考えています。(H14.1.31)

最終更新:2002/02/25


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<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会