熊本文学散歩


森鴎外の熊本滞在等に関する情報(その1)

 以下、閲覧いただいた冨崎(森鴎外記念会評議員)様からのメールの一部を紹介させていただきます。


熊本国府高パソコン同好会の皆さまへ
 はじめまして、私は、昭和50年代、熊本に勤務していたことがある者です。文豪漱石・鴎外の若い頃からの愛読者として、「草枕」や「阿部一族」などゆかりのある県内のあちこちを訪ねて回るのを楽しみにしておりました。御会作成の<熊本文学散歩>を改めて拝見、懐かしく当時のことを思い起こしております。
 ところで、森鴎外の関連で、ちょっと気が付いたことがあるので、メールによりお便りすることをお許しください。

〇鴎外の熊本視察訪問は、一回だけでなく、もう一回ある。
    〔声32・9・27〜29 (小倉日記ー第12師団軍医部長として)
   ◆〔声43・1・2〜4 (明治43年日記ー陸軍省医務局長として) (抜書き)

43.1.2(日) 朝風雪。厳島を発す。・・・小蒸気にて海峡をわたる。夕暮れに熊本に着き、研屋支店に入る。
1.3(月) 半晴。歩兵第十三連隊、同第二十三連隊、騎兵、砲兵、工兵の兵営を逐次に視る。歩兵第二十三連隊の将校集会所にて午食す。官事畢りて成趣園にゆく。世にいふ水前寺なり。・・・・夕に精養軒にて宴会あり。知事川路利恭臨席して活話す。曾て千住警察署長たりしとき余を見識ると云ふ。・・・・・・
1.4(火)  雨。地方幼年学校、輜重大隊、衛戍病院を視る。夕暮熊本を発して久留米に至る。・・・・

(コメント) 私は熊本在任中、水前寺公園の傍に住んでいました。このくだりは大変懐かしい。鴎外は、軍医総監在職3年目、正月返上で全国を巡視しているのです。熊本滞在日程は2泊3日だったことが分かります。
 余談ですが、鴎外がドイツ留学中、親睦を深めた乃木希典(当時陸軍少将)は、歩兵第11旅団長の軍職身分のまま、(熊本から直接赴任の形で)欧州派遣を命じられたのでした。地元関係者との懇談の中で、その後も小倉、日清日露役と続く両人(森・乃木)の浅からぬ因縁が、何かと語られただろうと思うのです。ちなみに乃木希典(陸軍大将、学習院長)夫妻の殉死は、この2年8月あとの出来事でした。

〇熊本で大石良雄自刃の図巻を視る。
 ここで、 _外の第一回熊本出張(定期巡閲・小倉日記)に戻ります。(抜書き)

32・9・27 午後一時五十八分博多を発し、夕べに熊本に至る。池田より車を下れば・・・・・静養軒に至り、晩餐せしむ。夜研屋支店に投宿す。・・・ 静養軒は下通町一丁目にあり、研屋支店は手取本町にあり。
9・28 朝熊本衛戍病院内なる衛生材料支廠に至り、所管の材料を視る。官事畢りて後、三善支廠長この地の人真島某の蔵する所の大石良雄等自殺の図巻を示す。・・・・図巻に拠れば良雄を介錯するものを安場一平といふ。当時細川家の物頭たり。・・・ 

(コメント) 大石内蔵助の細川家預け、切腹仰せ付けの図絵が、鴎外に非常な感銘を与えたことは、想像に難くありません。明治43年の正月。12年ぶりの熊本再訪で鴎外はその思いを新たにしたことでしょう。

〇熊本ですれ違い?・・・・・漱石と鴎外
 これから先は、よく調べていません。私の方から教えていただきたいのです。皆さんは市内の地理に詳しいと思いますので、どうかよろしく。

再び小倉日記 \茲曚匹梁海です。鴎外は、猛然と熊本市内探索を開始します。(抜書き)

32・9・28 (続き)・・・・午後四時坪井町の宗岳寺に至りて、蟠龍子(注:享保年間の人。「大和女訓」の著者)の墓を拝す。墓は寺内瑩域の西北辺にあり・・・・
 

 冨崎様、ありがとうございました。(以上、作成:2002/01/18)
 その後にも、情報をいただきました、ここにあります。(2002/02/01)

最終更新:2002/03/02


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