「興津弥五右衛門の遺書」では、殉死という行動への一種の「共感じみた悲壮美」が表現されているようです。ところが「阿部一族」では、一転して、その「非人間性への批判と怒り」が感じられます。3ヶ月後に発表された「阿部一族」は、殉死に対する鴎外自身の自己批判だったのでしょうか。当時、乃木大将の殉死というのは大事件だったに違いありません。鴎外ほどの人物さえ世評に流され、一時的にせよ冷静さをなくしたのでしょうか。しかし、鴎外に対する人間的興味は倍加します。自らの考えの過ち(?)を素直に訂正するところは、さすがに大人物、実に尊敬に値するすばらしい人間「鴎外」ではないでしょうか。世評に流されてしまうという一面は、誰にでもあるということを自覚しておきたいものです。
右上の写真は、御船町の東禅寺境内です。弥一右衛門らの墓とは断定できないが、阿部一族ゆかりの墓であると伝えられています。東禅寺は国道445号線沿い、御船警察署から山都町方面へ2km程進んだ東禅寺バス停の左手です。本堂の左裏手の坂道を上った木立の中にあります。
「阿部一族の墓が、上益城郡御船町の東禅寺と、北岡自然公園の近くと、2箇所あるとか…?」とのメールを頂き、調べてみました。 |
妙解寺跡の19の墓碑は同時期に建立されたとのこと。元々19人の殉死者に区別はなかったとも言われています。殉死を希望したものは22名、ほとんどが殉死を制止されており、許可されたと言われているのは3人程で他は全て許可なしだったとのこと。本当は弥市右衛門以外の大部分も「犬死」なのです。史実と小説の虚構の部分を混同しているところがあるようです。小説はあくまでも作者の構想のもとにした虚構の物語。フィクションの世界ということを頭では理解はしてても、事実と思い込んでしまいます。活字の怖さでしょうか、気をつけたいものです。(2005/06/15) |
「森鴎外の熊本訪問は1回ではなく、もう1回(明治43年1月に)あった」とのメールを頂きました。本ページ発信当初、冒頭で「たかだか3日間の滞在」と書いておりましたが、合計「6日間」となり、訂正しなければなりません。「阿部一族」発表の3年程前(明治43年1月2~4日)にも、2泊3日の熊本滞在があったとのことです。冨崎様、ありがとうございました。 |
熊本滞在中の日記の抜粋や興味深い情報を頂きました | |
森鴎外情報その1 | 森鴎外情報その2 |