熊本文学散歩


森鴎外の熊本滞在に関する情報(森鴎外「小倉日記」より)

 鴎外全集(岩波書店発行)より、熊本滞在の明治32年9月27〜30日の部分を紹介します。


(明治32年9月27日)
 二十七日。午前偕行社に徃きて、始て福岡研究會に?む。午後一時五十八分博多を發し、夕に熊本に至る。池田より車を下れば、C田哲二、嶋田完吾等迎へて靜養軒に至り、晩餐せしむ。夜研屋支店に投宿す。掌て嶋田の臺灣に在りて咯血せしを聞く。今まのあたりその哀耗の?なきを見る。喜ぶべし。靜養軒は下通町一丁目にあり、研屋支店は手取本町にあり。
(明治32年9月28日)
 二十八日。朝熊本衞戍病院内なる衛生材料支廠に至り、所管の材料を視る。官事畢りて後、三善支廠長此地の人眞嶋某の藏する所の大石良雄等自殺の圖巻及榊原康政の小田原陣中に在りて加藤C正に興ふる書を示す。巻尾に題して曰く、眞玄喬松記と。玄は名、喬松は字なるべし圖巻に據れば良雄を介錯するものを安場一平といふ。當時細川家の物頭たり。安場保和はその裔なりとぞ。榊原の書は眞贋を知らずと雖、第らく一本を謄冩して行李に收む。歸途新二丁目なる書肆の主人長崎次郎を訪ふ。叉刺を茨木中將の家に投ず。大江村大字九品寺の邊に在り。旅舎に反りて午餐す。柴野内藤兩小將の同じく舎れるを聞くを以って、徃いて面す。午後四時坪井町の宗岳寺に至りて、蟠龍子の墓を拜す。墓は寺内塋域の西北邊に在り。石盖と石趺とは苔蒸したれど、石身は新に洗磨を經たる者の如し。拗入櫛形の如く彫り窪めたる面に、蟠龍先生長秀翁之墓と題す。側背に井澤長勝の撰む所の墓誌を刻めり。長勝は長秀の子なり。域内猶井澤氏の墓ありて、西邊南邊等に散在す。寺を出でゝ熊本城廊を廻りて西に行き、輜重營前なる砂藥師坂を下り、田圃間を過ぎて本妙寺に至る。盖ある車を駐めて銭を乞ふ廢人二三を見る。既にし寺に近づけば、乞兒漸く多く、乞兒中には又癩人最多し。寺は丘上に在り。爪尖あがりの大道ありてこれに通ず。兩邊小寺院多し。大道窮まる處、右方に本堂あり。現にこれを補繕せり。道に接するに石級を以てす。頗る險し。石級に左右中の三あり。その中なるものを登るに、約百六十級あり。半腹の左右に共立難病醫院といふものあり。盖し治癩院ならん。丘頂に至れば廟あり。廟前の額堂には扁額の觀るべきものなし。廟後の墓は巨石を樹てたり。題して故肥後守從四位藤原朝臣C正墓と曰ふ。香花極めて盛なり。廟右の石垣内に又一石を立つ。題して朝鮮人金宦墓と曰ふ。初め予藪孤山の墓の本妙寺に在るを聞く。これを討めんと欲するに、數多の小寺院各々其墓田ありて、何の處より始むべきを知らず。試みに廟左林藪中に就いて墓百餘を歴視す。荊棘道を梗ぎて、蚊虻膚を噬む。日將に暮れんとして獲ず。空しく車を命じて還る。夜落合爲誠、下P謙太郎の二人來り訪ふ。落合に立田山の南峯なる秋山玉山の墓の事を問ふ。答へて曰く未だ曾て徃いて看ず。而れども同人玉山を祭らんことを期す。予若し徃かば、書を作りて報ずべしと。下瀬に難病醫院の事を問ふ。答へて曰く、是れ藤井某といふものゝ起す所にして、某は醫に非ず黴を治して、癩を治せりと稱す。別に本妙寺畔の救療院あり。加持力似@屮侫薀鵐船好アネル」ノFranciscaner Ordonの沸蘭西女子數人の經營に成る。醫學あるものにあらずと雖、間〃藥を投ず。その功績賞するに堪へたるものあり。其他立田山に囘春病院あり。亦治癩院たりと。下Pは豊後の人なり。話帆足萬里の事に及びて、其胤子の醫科大學の業を卒へ、郷に在りて技を售るを告ぐ。十時半客皆去りぬ。階下撞球の音を聞きつゝ眠に就く。
(明治32年9月29日)
 二十九日。午前九時八分熊本を發す。同乘者を内藤少將及相良行正となす。相良は曾て獨雌遐砲△蠅徳蠍しことあり。留學中病みて罷め歸る。今猶少佐たり。午時久留米に至る。別を二人に告げて車を下る。二人は其任地大村に返るものなり。塩屋に投じて午餐す。車を下る比より雨ふり、既にして漸く密なり。薄暮雨暫く止む。街上を逍遙す。書肆に就いて市街圖ありや否やを問うに、無しと答ふ。新に建てたる井上傳子之碑を看る。井上氏は久留米飛白布の祖なり。璽

 旧字体が多く、文字の都合で、原文と異なるところもあることをお断り致します。他にも、誤字脱字等もあるかとも思います。お気づきの点等ご指導いただければ幸いです。 

最終更新:2002/07/11


熊本文学散歩へ  鴎外のページへ 鴎外情報その1 その2へ

<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会