熊本文学散歩


宗 不旱そう ふかん

ふるさとに なお身を寄する 家ありて 春辺を居れば 鶯の鳴く

 水前寺公園内の出水神社境内に、ひっそりと宗不旱(そう ふかん)の歌碑(左の写真、2004/08/08撮影)が建っています。この碑が建立された頃、荒木精之さんは「宗不旱という歌人は、筑後の北原白秋、日向の若山牧水と並び称せらるべき肥後の歌人であって・・・」と述べておられます。

 熊本が生んだ、非凡な放浪歌人「宗不旱」は、本名耕一郎、明治17年(1884)5月14日熊本市上通町に生まれ、まもなく祖父の住んでいた鹿本町来民(現在の山鹿市)に預けられます。元気者で手におえなったからだそうです。幼い頃から一徹な気性、いわゆるワルゴロで、済々黌も退学となり、西南学院に編入しやっと卒業したのが明治34年。その後小学校の代用教員就いたり、熊本医学校に入学するのだが続かず、東京へ出ていくことに。故郷を離れると、過去への反省と自覚が現われ、読書を通じて文学に目覚めたとのこと。万葉集に心を傾け、朝鮮、中国を放浪しては、杜甫、李白、白楽天、陶淵明ら、中国の詩人の詩書に親しみます。この時、硯工(すずり作り)の技を身につけたといいます。(東京堂出版「現代短歌鑑賞辞典」)によれば「台湾の螺渓の石を発見し、硯工の道をひらいた」とのこと)

 宗不旱に関して「硯工の技を身につけたのは台湾であって、当時日本領土であった台湾を彼はたびたび訪れていたようです。台湾の螺渓の石を発見し、硯工の道を開いたというのが、歌人仲間では定評になってもいますので、台湾の地名が紹介文の中に無いのが少し残念でした。台湾の螺渓にころぶぬば玉の石得まくほり海原わたる の歌は再び台湾に渡った時の作です。窪田空穂を頼って上京して、窪田家に寄寓し、その庭先に莚を敷いて硯を作っていたといいます。硯の原点ともいうべき「台湾」が無かったので、余計なこととは思いながら一言。」というメール(2007/05/29)をいただきました。ありがとうございました。

 不旱は、低俗な歌壇に背をむけ、貧苦と病弱な子に悩みながら、孤高な作風を磨いていきます。晩年は孤独と貧困の中、各地を放浪。昭和17年5月末、阿蘇市内牧温泉の宿(達磨温泉)を出たまま消息を絶ちました。その後、同年9月に北外輪、鞍岳の山麓の水辺で遺体が発見されますが、それが不旱のものだと確認されたのは20数年経ってのことです。享年59才。その現場近くの林道沿いにも歌碑(下に写真)があります。

山に居れば 遠方野辺の もえ草を
心に留めて 高きより見る

 この碑があるのは、鞍岳の西麓の大規模林道沿い、終焉の地は、歌碑から林道を500mほど先に進み、更に700mほど下った谷間です。あたりには水が湧いています。水を求めて迷い込んだのでしょうか。そばに埋葬場所を示す簡単な柱(右上の写真)。水音と虫の声だけの大自然のまっただ中。これが熊本が生んだ大歌人の墓碑なのか。これこそ不旱らしいとも言えるのかも知れません。最近、すぐ近くに菊池市旭志の「四季の里」という温泉センターができており、その賑わいとは対照的です。(四季の里のふれあい広場と温泉の間を南北に通る大規模林道を北方向に進むと左手に駐車場と歌碑が見えてくる)

クリックすれば拡大画像 クリックすると終焉の地石碑
終焉の地近くの歌碑
終焉の地付近の略図

 これらの歌碑以外にも、以下のような歌碑があります。
 
出身地である山鹿市鹿本町の鹿本支所前に

くちなしの 実もていろ塗る ふるさとの 来民の團扇 春の日に干す
  (鹿本町来民は昔から団扇(うちわ)の産地である)

最後の宿泊地である阿蘇市内牧温泉 道智寺裏に

内之牧 朝やみ出でて 湯に通ふ 道のべに聞く 田蛙のこゑ

同じく、阿蘇市的石茶屋 隼鷹(はやたか)宮に

隼鷹の 宮居の神は 薮なかの 石の破片にて おはしけるかも
最終更新:2007/05/29

<制作>熊本国府高等学校パソコン同好会


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